東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「カンパーニャとローマ・ヴァティカン」(イタリア)

第四部 ローマ・ヴァティカン編

D15. ローマ教皇アレクサンデル6世ゆかりのボルジアの間

ボルジアの間と自由七学芸を描いた絵画

イタリアのバロック美術の巨人ベルニーニを育てたローマ教皇ウルバヌス8世の礼拝堂に続いては、このヴァティカン美術館・博物館・宮殿の最大の目玉とも言うべきシスティーナ礼拝堂に向かうのが一般的なルートみたい。でも、ちょいと寄り道してやって来たのが、このボルジアの間だった。

イタリアの首都ローマのヴァティカン宮殿のボルジアの間で見た教皇アレクサンデル6世の生家ボルジア家の雄牛の紋章と自由七学芸を描いた絵画

このボルジアの間の壁から天井にかけての様子が上の画像なんだ。画像の下部に描かれているのは、自由七学芸をテーマとする絵画だね。その上の左端と右端に描かれている金色の雄牛。これが故にボルジアの間に寄り道したかったんだ。

ローマ教皇アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジア

雄牛の紋章はボルジア家のもの。そのボルジア家の出身だったのが、西暦1492年に即位したローマ教皇アレクサンデル6世だった。このボルジアの間には、そのアレクサンデル6世の名(下の画像)も残されている。

イタリアの首都ローマのヴァティカン宮殿のボルジアの間で見た教皇アレクサンデル6世の名

そしてローマ教皇アレクサンデル6世(本名はロドリーゴ・ボルジア)の息子はチェーザレ・ボルジア。あの塩野七生さんが著した「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」の物語の主人公だよね。その物語が好きだった私としては、このボルジアの間は是非とも見たかったわけだ。

スペインのヴァレンシア出身のボルジア家

ローマ教皇アレクサンデル6世を生んだボルジア家は、元々はスペインのヴァレンシアの出身だった。でも、15世紀に一族の中からローマ教皇カリストゥス3世が出たことから、その甥であるロドリーゴ・ボルジアはローマ教皇庁に入り、カトリック教会の中で出世していったらしい。

ちなみに、枢機卿時代のロドリーゴ・ボルジアは、親族関係にあるアラゴン王フェルナンド2世カスティーリャ女王イサベル1世の結婚について当時の教皇の承認を得る為に尽力をしたこともあった。(彼の出身地ヴァレンシアはアラゴン王家の支配下にあった。)

ロドリーゴ・ボルジアの口利きで結婚した二人は、ポルトガル王アフォンソ5世との戦いに勝ち、やがて西暦1492年にスペイン南部アンダルシア地方古都グラナダに残っていたイスラム教徒のナスル朝を征服し、カトリック両王と称されるようになったわけだ。その同じ年にロドリーゴ・ボルジアはローマ教皇アレクサンデル6世となり、このヴァティカン宮殿のボルジアの間で暮らし始めた。

イタリアの首都ローマのヴァティカン宮殿のボルジアの間で見た教皇アレクサンデル6世の生家ボルジア家の雄牛の紋章と自由七学芸の中の音楽を描いた絵画

ローマ教皇となったアレクサンデル6世は、すぐさま息子のチェーザレ・ボルジアを出身地のヴァレンシアの大司教としている。その翌年にはまだ18歳のチェーザレを枢機卿としている。やがて枢機卿の地位を返上したチェーザレ・ボルジアは、教皇庁の軍の総司令官とされ、軍事力でイタリアに覇をとなえようとしたんだ。

ローマ教皇アレクサンデル6世の死とチェーザレ・ボルジアの落日

ところが、西暦1503年の夏、ローマ教皇アレクサンデル6世が病に倒れ、亡くなってしまった。(下の画像は、ボルジアの間の中でアレクサンデル6世の遺骸が安置されていたといわれる場所の今の様子。)

イタリアの首都ローマのヴァティカン宮殿のボルジアの間の中の教皇アレクサンデル6世の遺骸が安置されていた場所

しかも、時を同じくしてチェーザレ・ボルジア自身も病に倒れてしまい、新しい教皇に捕えられ、征服した領地も失ってしまった。チェーザレ・ボルジアはナポリに逃れたものの、サンタルチア湾を見渡すカステル・ヌオーヴォに幽閉されてしまった。

やがてスペインでの幽閉を脱したチェーザレ・ボルジアは、義兄(妻の兄)ナヴァーラ王を頼ってパンプローナへと逃れた。でも、西暦1507年、スペイン軍との戦いの中で戦死。イタリア乱世の英雄チェーザレ・ボルジアは31歳という若さで亡くなってしまったんだ。

若くして亡くなったチェーザレ・ボルジアなんだけど、ナヴァーラ王家の王女シャルロット・ダルブレとの間に娘ルイーズを残していた。その娘ルイーズはフランスのブルボン家の分家にあたるビュッセ男爵家(後に伯爵家)に嫁ぎ、その子孫は現代に至るまで続いているんだそうな。

ところで、「君主論」の著者マキャベリは、フィレンツェの政庁の書記官をしていた頃に、外交官としてチェーザレ・ボルジアと何度か会っている。そのマキャベリによれば、チェーザレ・ボルジアは父である教皇が亡くなった場合の対応について事前に考えておいたそうな。でも、その肝心な時に自分自身が瀕死の病で起き上がれない状況になるとは思ってもみなかったと言っていたらしい。


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