フォロ・ロマーノで見たロムルスの神殿西暦306年に古代ローマ帝国の皇帝としての即位を宣言したのがマクセンティウスだった。そして西暦309年、皇帝マクセンティウスの嫡男のロムルス(古代ローマを築き、ローマの名前の元となった名を持つ人物と同じ名を与えられた)が14歳で亡くなってしまった。
嫡男を失ったことを哀しんだ皇帝マクセンティウスが亡きロムルスの為に建立したのが、上の画像にあるロムルスの神殿なんだそうな。
フォロ・ロマーノにあるウェヌスとローマ神殿そして下の画像はフォロ・ロマーノにあるウェヌスとローマ神殿。ウェヌスもローマもここでは女神様の名前なんだ。つまり、この神殿は二人の女神に捧げられた神殿というわけだ。
このウェヌスとローマ神殿の建立が始まったのは西暦121年のこと。イギリス北部スコットランドに残るハドリアヌスの長城(城壁)で名高い古代ローマ帝国皇帝ハドリアヌスが建立したらしい。(但し、完成したのは皇帝アントニヌス・ピウスの時代だった。)
古代ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスに敗れたマクセンティウスこの頃の皇帝マクセンティウスは、古代ローマ帝国の本拠イタリアとアフリカ北部を支配下に置いていた。でも、当時の古代ローマ帝国には、皇帝を称する人物は何人もいたんだ。マクセンティウスの父親のマクシミアヌスも皇帝を称して息子と対立していた。皇帝リキニウスがマクセンティウスと対立した時期もあった。北アフリカを本拠にドミティウス・アレクサンデルが皇帝を称し、マクセンティウスと戦ったこともあった。 そして西暦312年、今のイギリスやフランスを支配下に勢力を伸ばしていた皇帝コンスタンティヌスが、ついにイタリアに入ってきた。両雄はローマ近郊で激突。勝ったコンスタンティヌスは古代ローマ帝国の皇帝としての地位を確立したわけだ。 敗れたマクセンティウスは戦死。若くして亡くなった嫡男ロムルスの為に建立しようとした神殿を完成させることも出来なかった。ウェヌスとローマ神殿の修復を成し遂げたのも、勝った皇帝コンスタンティヌスだったそうな。
フォロ・ロマーノにあるティトゥスの凱旋門ところで、上にあるウェヌスとローマ神殿の画像の左端に、白い門が写っているのが見えるよね。あの門を近くから眺めた様子が下の画像なんだ。これはティトゥスの凱旋門なんだそうな。
やがて古代ローマ帝国の皇帝となるティトゥスは、反乱を起こしたユダヤ人を鎮圧し、エルサレムを占領した人物なんだそうな。ちなみに、ユダヤ人の住むイスラエルは、カエサル(シーザー)と三頭政治を行ったポンペイウスが紀元前63年に征服していた。以後、イスラエルは古代ローマ帝国の領土となっていたんだ。
ついでながら、そんなポンペイ遺跡の発掘が行われたのが18世紀なんだけど、出土品は当時のナポリ王カルロ7世(後のスペイン王カルロス3世)のコレクションに加えられた。ナポリにある国立考古学博物館ではポンペイからの出土品(アレクサンダー大王のイッソスの戦いのモザイク画を含む)を見てきたんだけどね。
All rights reserved このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 このサイトの運営は、あちこち三昧株式会社が行います。
|