東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「カンパーニャとローマ・ヴァティカン」(イタリア)

第四部 ローマ・ヴァティカン編

D50. フォロ・ロマーノにあるロムルスの神殿、ティトゥスの凱旋門

フォロ・ロマーノで見たロムルスの神殿

西暦306年に古代ローマ帝国の皇帝としての即位を宣言したのがマクセンティウスだった。そして西暦309年、皇帝マクセンティウスの嫡男のロムルス(古代ローマを築き、ローマの名前の元となった名を持つ人物と同じ名を与えられた)が14歳で亡くなってしまった。

イタリアの首都ローマのフォロ・ロマーノにあるロムルスの神殿

嫡男を失ったことを哀しんだ皇帝マクセンティウスが亡きロムルスの為に建立したのが、上の画像にあるロムルスの神殿なんだそうな。

フォロ・ロマーノにあるウェヌスとローマ神殿

そして下の画像はフォロ・ロマーノにあるウェヌスとローマ神殿。ウェヌスもローマもここでは女神様の名前なんだ。つまり、この神殿は二人の女神に捧げられた神殿というわけだ。

イタリアの首都ローマのフォロ・ロマーノにあるウェヌスとローマ神殿

このウェヌスとローマ神殿の建立が始まったのは西暦121年のこと。イギリス北部スコットランドに残るハドリアヌスの長城(城壁)で名高い古代ローマ帝国皇帝ハドリアヌスが建立したらしい。(但し、完成したのは皇帝アントニヌス・ピウスの時代だった。)

ところが、このウェヌスとローマ神殿が西暦307年に火災に遭った。そして神殿の修復を始めたのが、上のロムルスの神殿を建立した古代ローマ帝国皇帝マクセンティウスだった。

古代ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスに敗れたマクセンティウス

この頃の皇帝マクセンティウスは、古代ローマ帝国の本拠イタリアとアフリカ北部を支配下に置いていた。でも、当時の古代ローマ帝国には、皇帝を称する人物は何人もいたんだ。

マクセンティウスの父親のマクシミアヌスも皇帝を称して息子と対立していた。皇帝リキニウスがマクセンティウスと対立した時期もあった。北アフリカを本拠にドミティウス・アレクサンデルが皇帝を称し、マクセンティウスと戦ったこともあった。

そして西暦312年、今のイギリスやフランスを支配下に勢力を伸ばしていた皇帝コンスタンティヌスが、ついにイタリアに入ってきた。両雄はローマ近郊で激突。勝ったコンスタンティヌスは古代ローマ帝国の皇帝としての地位を確立したわけだ。

敗れたマクセンティウスは戦死。若くして亡くなった嫡男ロムルスの為に建立しようとした神殿を完成させることも出来なかった。ウェヌスとローマ神殿の修復を成し遂げたのも、勝った皇帝コンスタンティヌスだったそうな。

フォロ・ロマーノにあるティトゥスの凱旋門

ところで、上にあるウェヌスとローマ神殿の画像の左端に、白い門が写っているのが見えるよね。あの門を近くから眺めた様子が下の画像なんだ。これはティトゥスの凱旋門なんだそうな。

イタリアの首都ローマのフォロ・ロマーノにあるティトゥスの凱旋門

やがて古代ローマ帝国の皇帝となるティトゥスは、反乱を起こしたユダヤ人を鎮圧し、エルサレムを占領した人物なんだそうな。ちなみに、ユダヤ人の住むイスラエルは、カエサル(シーザー)と三頭政治を行ったポンペイウスが紀元前63年に征服していた。以後、イスラエルは古代ローマ帝国の領土となっていたんだ。

ユダヤ人の反乱を鎮圧して凱旋したティトゥスは、父の皇帝ウェスパシアヌスが亡くなった西暦79年に古代ローマ帝国の皇帝となった。ところが、まさにその年にヴェスヴィオ火山の噴火によってポンペイは埋没し、翌年にはローマが大火に襲われ、その翌年には疫病が大流行して皇帝ティトゥス自身も亡くなっている。皇帝在位はたったの2年だったそうな。

ついでながら、そんなポンペイ遺跡の発掘が行われたのが18世紀なんだけど、出土品は当時のナポリ王カルロ7世(後のスペイン王カルロス3世)のコレクションに加えられた。ナポリにある国立考古学博物館ではポンペイからの出土品アレクサンダー大王のイッソスの戦いのモザイク画を含む)を見てきたんだけどね。


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