フォロ・ロマーノで見たコンスタンティヌスの凱旋門前のページでは、若くして亡くなった息子の為にフォロ・ロマーノにロムルスの神殿を建立しようとしながらも、戦いに敗れて完成させることが出来なかった古代ローマ帝国の皇帝マクセンティウスのことを書いた。
戦いでマクセンティウスを戦死させたのが、古代ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスなんだけど、彼がフォロ・ロマーノに残したのが上の画像にあるコンスタンティヌスの凱旋門なんだ。
古代ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスコンスタンティヌスの父である皇帝コンスタンティウス・クロルスは、スコットランドのピクト人に対する遠征の為に滞在していたエボラクム(今のイギリスの街ヨーク)で、西暦306年に亡くなった。亡くなった皇帝の軍団は、息子のコンスタンティヌスを皇帝として推戴したらしい。でも、結局はコンスタンティヌスは西の副帝とされたんだそうな。副帝ではあっても、父の支配地域を継承したコンスタンティヌスは、今のスペインからドイツにかけての領域を統治し、力を蓄えていった。そして西暦312年にイタリアに乗り込み、マクセンティウスを撃ち破り、古代ローマ帝国の西の正帝となったんだ。 その翌年の西暦313年には古代ローマ帝国の二人の皇帝コンスタンティヌスとリキニウスがミラノ勅令を発し、キリスト教の信仰を容認している。ところが、リキニウスはやがてキリスト教徒を迫害し始めたらしい。そんなリキニウスと対立したコンスタンティヌス。西暦324年には二人の皇帝が戦い、勝利を得たコンスタンティヌスが古代ローマ帝国のただ一人の皇帝となった。 最高権力者となったコンスタンティヌスは、西暦330年には古代ローマ帝国の首都をコンスタンティノープルに移している。大帝とも称されるコンスタンティヌスは西暦337年に亡くなっている。その前に彼はキリスト教の洗礼を受けたんだそうな。 ちなみに、彼の母親ヘレナはキリスト教徒だったと言われる。そのヘレナの石棺は、ヴァティカン美術館・博物館の中のギリシャ十字の間で見ることが出来るんだ。また、ヴァティカン美術館・博物館にあるコンスタンティヌスの間では、キリスト教の信仰を認めた皇帝コンスタンティヌスをテーマとして描かれた絵も見ることが出来る。
意外とケチなことをした皇帝コンスタンティヌスの凱旋門大帝とも称された古代ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスの凱旋門は、数々のレリーフや彫刻によって飾られている。
でも、それらのレリーフや彫刻は、古代ローマ最大の版図を築いたトラヤヌス帝、スコットランドに長城を残したハドリアヌス帝などの歴代の皇帝の記念碑などから拝借したものなんだってさ。意外とケチなことをするんで驚いちゃうよね。アブシンベル大神殿などで名高い古代エジプトの王ラムセス2世も同様のことをしたらしいけどね。 皇帝コンスタンティヌスとローママクセンティウスやリキニウスとの戦いに勝ち、古代ローマ帝国の再統一を果たした皇帝コンスタンティヌス。帝国に平和を蘇らせ、ローマに再び栄光をもたらしたとも言える。
他方では、帝国の首都をコンスタンティノープルに移し、古代世界の都としてのローマに終焉をもたらしたとも言われているけどね。
All rights reserved このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。 このサイトの運営は、あちこち三昧株式会社が行います。
|