東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のポルトガル」

リスボン、シントラ、オビドス、ナザレなど

04. シントラ -2. 王宮とムーア人の城跡

シントラの王宮に到着

今朝は7時に起床。まずは風呂につかって身体を目覚めさせる。ホテルのレストランで朝食を済ませ、食後には庭を散歩。今日の天気はまずまず。雲が出たかと思えば青空が広がる。雨が降らないだけましかな。9時にはバスに乗り込み、ホテルを出発。といっても、シントラにあるかつてのポルトガル王家の王宮(下の画像)には 5分ほどで到着したよ。

シントラに残るポルトガル王家の王宮

王宮 ・・・ とはいっても、西暦1910年の革命でポルトガルでは王政が廃止されている。今は王家は存在しない。というわけで、この王宮も今ではポルトガルの国有財産となっているらしい。

ついでながら、隣国のスペインでも王政が廃止されていた。でも、スペイン内戦で勝利を得た独裁者フランコ総統が亡くなった西暦1975年、かつてのスペイン王家の子孫であるフアン・カルロス1世がスペイン国王となり、王政が復活したんだ。

もう一つおまけの話なんだけど、第二次世界大戦中に連合国軍がローマを攻略して終戦を迎えた後にイタリアの王政が廃止となり、最後のイタリア国王はこのポルトガルに亡命したらしい。19世紀後半の近代統一イタリア王国成立から100年も続かなかったんだね。

話をポルトガルに戻そう。目の前のシントラの王宮なんだけど、中に入ることが出来るのは10時からなんだそうな。土産物を売っている売店の開店も10時。というわけで、すぐ目の前のカフェでカフェ・コン・レテ(スペイン語ではカフェ・コン・レチェとなるらしいけど、つまりはカフェ・オ・レ)を飲んでのんびり。

シントラの王宮を飾る大航海時代のポルトガルの栄華

やがて10時前にはシントラの王宮の前(下の画像)に集合。多くの人々が集まってきた。会話を聞いていると、アメリカ人、ドイツ人などなどかな。日本人は私たちだけみたい。では、シントラの王宮(パラシオ・ナショナル・デ・シントラあるいはパラシオ・レアル)に入ろう。

シントラに残るポルトガル王家の王宮

残念ながら、このシントラの王宮の中ではカメラの使用が禁じられていた。というわけで、王宮の中の様子を画像で紹介できないのがとっても残念なんだけど、大航海時代のポルトガルの栄華を物語るお宝が溢れていたよ。特にポルトガルのアズレージョのコレクションとしては、ポルトガルでも最大級なんだそうな。

このシントラの王宮が建てられたのは15世紀の前半のことだった。ポルトガル王家の人々は、このシントラ王宮で過ごすのを好んだらしい。後にグラナダを陥落させてレコンキスタを完了させたスペインのカトリック両王の一人であるカスティーリャ女王イサベル1世と争ったポルトガル王アフォンソ5世はここで生まれ、ここで亡くなったんだそうな。

その後、大航海時代のポルトガル王マヌエル1世は、スペイン南部アンダルシア地方の街セビリアで作らせたタイルで、このシントラの王宮を飾らせている。(彼のおかげでこの王宮のアズレージョのコレクションが充実しているわけだ。)

ついでながら、16世紀に日本人がここを訪れている。西暦1582年に長崎を出発し、西暦1584年にポルトガルに到着した天正遣欧少年使節たちは、ここでハプスブルク家のポルトガル総督に謁見した。当時はハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世皇帝カール5世の息子)がポルトガル王を兼ね、その甥が総督としてポルトガルを統治していたんだ。

ちなみに、その後の天正遣欧少年使節はイタリアのローマを訪れ、教皇にも拝謁している。更にはサン・ピエトロ大聖堂での教皇シクストゥス5世の即位の式典にも参列したんだそうな。

シントラの山の上のムーア人の城跡とイスラム教徒の支配

ところで、このシントラの街を見下ろす山の上には、城壁に囲まれた城跡(下の画像)もある。かつてここを支配していたイスラム教徒によって8世紀頃に築かれた城ということで、「ムーア人の城跡」と呼ばれている。

シントラに残るムーア人の城跡(ポルトガル)

西暦711年に北アフリカから侵攻してきたイスラム教徒は、西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島の殆どを征服した。このシントラも彼らに支配されたわけだ。そんなシントラを西暦1147年に奪い返したのは、ポルトカレ伯アフォンソ・エンリケス(後の初代ポルトガル王アフォンソ1世)だった。

但し、その前の11世紀末にもシントラにキリスト教徒の軍が入ったことがある。カスティーリャ王アルフォンソ6世スペインの古都トレドを奪還した後、北アフリカからムラービト朝が進出してきた。当時のシントラを支配していたイスラム教徒の領主はムラービト朝の支配を惧れ、むしろカスティーリャ王と同盟し、キリスト教徒の軍をシントラに入れたんだそうな。でも、強力なムラービト朝の軍に対抗できず、その当時のカスティーリャ軍はシントラを保つことは出来なかったらしいけどね。

シントラの山の上のペナ宮殿

シントラを見下ろす別の山の上には、ペナ宮殿(下の画像)もある。19世紀前半にポルトガル女王マリア2世のご主人のフェルナンド2世によって築かれた宮殿なんだそうな。

シントラに残るペナ宮殿(ポルトガル)

かつてこの山の上にはペナ修道院があった。でも、西暦1755年のリスボン地震によってペナ修道院は廃墟となったらしい。フェルナンド2世は廃墟となった修道院を再建し、華麗な宮殿を建て、広大な庭園を造ろうとしたんだそうな。

ちなみに、このペナ宮殿もシントラの王宮もムーア人の城跡も、シントラの文化的景観を構成するものとして西暦1995年に世界遺産となっている。今回の旅ではムーア人の城跡にもペナ宮殿にも行くことができないのが残念だけどね。


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