東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のポルトガル」

リスボン、シントラ、オビドス、ナザレなど

16. バターリャ修道院 -2. 内部と回廊

ポルトガルを代表するゴシックとされるバターリャ修道院の内部

カスティーリャとの戦いに勝利を得たポルトガル王ジョアン1世によって西暦1388年に建立されたバターリャ修道院(あるいは勝利の聖母マリア修道院)の中に入る。

ポルトガルを代表するゴシックとされるバターリャ修道院の内部

ポルトガルを代表するゴシック様式の建物とされるだけあって、細い柱や高い天井、強調された垂直線が印象的だよね。ゴシック様式ならではのステンド・グラスも、ポルトガルで初めて持ち込まれたのが、このバターリャ修道院だったそうな。

イギリスの影響を受けたバターリャ修道院

ゴシック様式と言えば、その先駆とされるのはフランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂であり、シャルトル大聖堂ノートルダム大聖堂のあるフランスがゴシックの中心とされるんだろうね。

ポルトガルを代表するゴシックとされるバターリャ修道院の内部

でも、このバターリャ修道院にはイギリス北部の街ヨークにあるヨーク・ミンスターイギリス南部の街カンタベリーにあるカンタベリー大聖堂の影響も見られるんだそうな。

当時のイギリスとフランスは百年戦争の最中にあったんだけど、カスティーリャと戦うポルトガル王国は、イギリス(正しくはイングランドだね)と結んでいたからなんだろうね。しかも、ポルトガル王ジョアン1世の奥さん(エンリケ航海王子のお母さん)はイギリス出身だったんだ。

バターリャ修道院と様々な建築様式

基本的にはゴシック様式とされるバターリャ修道院の建立は西暦1388年のこと。でも、その建設工事には長い年月が費やされた。というわけで、ゴシック以外にも、様々な建築様式が影響を与えたんだそうな。

ポルトガルを代表するゴシックとされるバターリャ修道院の回廊

15世紀に入ると、火焔式(フランボワイヤン)ゴシックが取り入れられた。大航海時代の最盛期のポルトガル王マヌエル1世の頃には、マヌエル様式の影響を受けている。その後はルネサンス様式の影響も見られるらしい。

そしてポルトガルに甚大な被害をもたらしたリスボン地震の際にはバターリャ修道院の一部も損壊したらしい。更にはフランス皇帝ナポレオンの命により、フランス・スペイン連合軍がポルトガルに侵攻した際にも部分的な破壊があったらしい。もちろん、その後は修復が行われたけどね。但し、今ではバターリャ修道院は博物館となっているんだ。

バターリャ修道院の中にある無名戦士の墓

そんなバターリャ修道院の中に兵士が警護する一角がある。それが下の画像なんだけど、無名戦士の墓なんだそうな。何の戦争の戦死者なのかと思ったら、第1次世界大戦の際にフランスとアフリカで亡くなった兵士の墓なんだそうな。

ポルトガルを代表するゴシックとされるバターリャ修道院にある無名戦士の墓

西暦1910年の革命でポルトガルの王制が廃止された直後に起こった第1次世界大戦。急進派から王党派まで様々な勢力が争っていたポルトガルには、親独派もいれば親英派もいたらしい。が、当時の独裁政権は中立を保ったんだそうな。

ところが、西暦1915年の総選挙で勝った民主党の政権は、翌年にはドイツに宣戦布告。多くの兵士たちをヨーロッパとアフリカに送り込み、軍事費は財政を悪化させ、暴動、クーデター、暗殺などが続いたらしい。それが後にサラザールによる独裁政治につながっていったわけだ。このバターリャ修道院にある無名戦士の墓は、そんなポルトガルの暗い思い出を忘れさせない為のものなんだろうね。


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