ポルトガルを代表するゴシックとされるバターリャ修道院の内部カスティーリャとの戦いに勝利を得たポルトガル王ジョアン1世によって西暦1388年に建立されたバターリャ修道院(あるいは勝利の聖母マリア修道院)の中に入る。
ポルトガルを代表するゴシック様式の建物とされるだけあって、細い柱や高い天井、強調された垂直線が印象的だよね。ゴシック様式ならではのステンド・グラスも、ポルトガルで初めて持ち込まれたのが、このバターリャ修道院だったそうな。
イギリスの影響を受けたバターリャ修道院ゴシック様式と言えば、その先駆とされるのはフランスの首都パリの郊外にあるサン・ドニ大聖堂であり、シャルトル大聖堂やノートルダム大聖堂のあるフランスがゴシックの中心とされるんだろうね。
でも、このバターリャ修道院にはイギリス北部の街ヨークにあるヨーク・ミンスターやイギリス南部の街カンタベリーにあるカンタベリー大聖堂の影響も見られるんだそうな。
バターリャ修道院と様々な建築様式基本的にはゴシック様式とされるバターリャ修道院の建立は西暦1388年のこと。でも、その建設工事には長い年月が費やされた。というわけで、ゴシック以外にも、様々な建築様式が影響を与えたんだそうな。
15世紀に入ると、火焔式(フランボワイヤン)ゴシックが取り入れられた。大航海時代の最盛期のポルトガル王マヌエル1世の頃には、マヌエル様式の影響を受けている。その後はルネサンス様式の影響も見られるらしい。
バターリャ修道院の中にある無名戦士の墓そんなバターリャ修道院の中に兵士が警護する一角がある。それが下の画像なんだけど、無名戦士の墓なんだそうな。何の戦争の戦死者なのかと思ったら、第1次世界大戦の際にフランスとアフリカで亡くなった兵士の墓なんだそうな。
西暦1910年の革命でポルトガルの王制が廃止された直後に起こった第1次世界大戦。急進派から王党派まで様々な勢力が争っていたポルトガルには、親独派もいれば親英派もいたらしい。が、当時の独裁政権は中立を保ったんだそうな。
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