東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のポルトガル」

リスボン、シントラ、オビドス、ナザレなど

17. バターリャ修道院 -3. 未完の礼拝堂

バターリャ修道院の工事を引き継いだポルトガル王ドゥアルテ1世

西暦1385年にアルジュバロータの戦いにおいてカスティーリャ王国に勝ち、王国の独立と王位を確保した初代アヴィス朝ポルトガル王ジョアン1世は、西暦1433年に亡くなった。その王位を継承したのは、嫡男のドゥアルテ1世だった。

余談なんだけど、ドゥアルテという名前は、母方の曽祖父の名前から来ている。ドゥアルテの母フィリッパはイングランドのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘であり、イングランド王エドワード3世の孫だった。そのエドワードがポルトガル風にされてドゥアルテと名づけられたんだそうな。

ついでながら、ジョン・オブ・ゴーントはシェイクスピアが描いたイングランド王リチャード2世に遠ざけられたもののランカスター家の祖となり、ばら戦争の一方の主役たちを生み出している。(ばら戦争を集結させたのは、ランカスター家の血をひくテューダー家のイングランド王ヘンリー7世。)

話を元に戻し、ポルトガル王ドゥアルテ1世は父王が建立したバターリャ修道院(勝利の聖母マリア修道院)の工事を引き継いだだけじゃなく、西暦1437年には新たな礼拝堂の工事を始めている。その礼拝堂の内部の様子が下の画像なんだ。

ポルトガルを代表するゴシックとされるバターリャ修道院の未完の礼拝堂の内部

でも、上の画像に見える礼拝堂、なんだか様子がおかしいよね。本来は暗い内部の壁がむやみに明るいし、そもそも空が見えているような ・・・ 。

バターリャ修道院の未完の礼拝堂

父王の事業を継承してバターリャ修道院の工事を続けたポルトガル王ドゥアルテ1世だったけど、新たな礼拝堂(今では「未完の礼拝堂」と呼ばれている)の工事を始めた翌年に亡くなってしまった。(下の画像はその未完の礼拝堂の中から見上げた青空。)

ポルトガルを代表するゴシックとされるバターリャ修道院の未完の礼拝堂の中から眺めた青空

その死因はペストだったらしい。西暦1347年にフランス南部プロヴァンス地方港町マルセイユに上陸したペスト(黒死病)が名高いけど、その後もペストは何度も流行しているんだ。

その後のバターリャ修道院と未完の礼拝堂

ドゥアルテ1世が亡くなった後、その息子であるポルトガル王アフォンソ5世の時代にもバターリャ修道院と未完の礼拝堂の工事は続けられた。但し、即位時のアフォンソ5世は幼少だった頃は、ドゥアルテ1世の弟のコインブラ公ペドロが摂政となっていたんだけどね。西暦1481年にはアフォンソ5世が亡くなり、息子のポルトガル王ジョアン2世が工事を継承している。

ちなみに、エンリケ航海王子などの指導の下に大航海時代の繁栄に近づきつつあった当時のポルトガルでは、後に新大陸アメリカを発見したコロンブスが航海技術を磨いていた。そのコロンブスが大西洋を横断する西回り航路を提案したのが、そのポルトガル王ジョアン2世だった。でも、ジョアン2世は西回り航路の提案を受け入れなかった。故にコロンブスはスペインに向かい、カスティーリャ女王イサベル1世の支援を受けたわけだ。

アメリカ発見の機会を逸したジョアン2世は、嫡出の男子を残すことなく、西暦1495年に亡くなった。続いて即位したポルトガル王マヌエル1世は、ドゥアルテ1世の孫にあたり、ジョアン2世の従弟にして王妃の弟でもあった。マヌエル1世もバターリャ修道院や未完の礼拝堂の工事を継承している。

このポルトガル王マヌエル1世の時代にはヴァスコ・ダ・ガマの艦隊がインドのカリオカットに到達し、間もなく大航海時代のポルトガルの最盛期を迎えることになる。リスボンのベレンの塔とジェロニモス修道院を残したマヌエル1世はマヌエル様式の名を残しているけれども、このバターリャ修道院にマヌエル様式の影響を残したのも彼の時代のことだった。

そんなマヌエル1世が西暦1521年に亡くなって即位したのが、息子のポルトガル王ジョアン3世だった。バターリャ修道院や未完の礼拝堂の工事のみならず、壮大なジェロニモス修道院の工事をもジョアン3世は引き継いでいた。しかし、ジェロニモス修道院の工事を優先する為、バターリャ修道院と未完の礼拝堂の工事を中断することにしたのもジョアン3世だった。

西暦1557年にジョアン3世が亡くなり、即位したのは孫のポルトガル王セバスチャン1世だった。ところが、3歳で王となったセバスチャン1世は結婚することもなく24歳で戦死。枢機卿にして摂政となっていたマヌエル1世の息子のエンリケ1世がポルトガル王となった。ところが彼も後継者を残さずして2年で亡くなってしまった。

結局、西暦1580年にポルトガル王位を継承したのは、マヌエル1世の王女を母とし、ハプスブルク家の皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)を父とするスペイン王フェリペ2世だった。その後、80年間に渡り、ポルトガルは総督によって統治されることとなる。そんな状況でバターリャ修道院も未完の礼拝堂も完成の日を迎えることはなかったというわけだ。

バターリャ修道院の未完の礼拝堂の屋根

ポルトガルは西暦1640年に独立を回復している。でも、夢の途中で途切れていた大航海時代の栄華を取り戻すことは出来なかった。それどころか、西暦1755年にはリスボン地震により甚大な被害を蒙っている。更にはフランス皇帝ナポレオンの命によるポルトガル侵攻は、ブラジルの独立への道を開き、癒すことの出来ない爪痕をポルトガルに残したようにも見える。

ポルトガルを代表するゴシックとされるバターリャ修道院の未完の礼拝堂の屋根

上の画像はバターリャ修道院の未完の礼拝堂の覆われることが無かった屋根なんだけど、運命に手折られた大航海時代のポルトガルの夢の跡のようにも見えるね。


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