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東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
旅行記 「春のポルトガル」
リスボン、シントラ、オビドス、ナザレなど
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- 1086年、北アフリカから侵入してきたムラービト朝(アルモラヴィダ朝)の軍が、サグラーハスの戦いにおいてカスティーリャ王アルフォンソ6世の軍を撃ち破った。
ムラービト軍に対抗するイベリア半島のキリスト教徒軍を支援するために、クリュニー修道院の影響下にあったブルゴーニュ(フランス)の騎士達がカスティーリャ王アルフォンソ 6世の軍に参加した。
- 1096年、カスティーリャ王女テレサと結婚したブルゴーニュの騎士エンリケ(フランス語ではアンリ)が、ポルトカレ伯爵エンリケ・デ・ボルゴーニャとなった。
- 1121年、ポルトカレ伯エンリケの未亡人テレサは、トラヴァス家のフェルナン・ロペスと再婚。トラヴァス家はポルトカレ伯領を併合した上で、ガリシア王国を再興することを狙っていた。
- 1126年、レオン・カスティーリャ国王アルフォンソ 7世は、サンティアゴ大司教にガリシアの統治権を与えた。
しかし、トラヴァス家とポルトカレ女伯テレサは、サンティアゴ大司教への服属を拒否。両者の対立は、翌年にはポルトカレ各地の焼き討ちにまで至る。
- 1128年、ポルトカレ女伯テレサとトラヴァス家に反発していたポルトカレの貴族たちは、エンリケ・デ・ボルゴーニャの息子であるドン・アフォンソ・エンリケスを指導者として蜂起し、ポルトカレ女伯テレサの軍を撃ち破った。
その結果、ドン・アフォンソ・エンリケスがポルトカレにおいて権力を確立し、またポルトカレ伯領の自治的傾向が強まった。
- 1131年、ポルトカレ伯アフォンソ・エンリケスはコインブラに軍を進め、レコンキスタ(国土回復運動)の戦いに参加した。
- 1135年、ポルトカレ伯アフォンソ・エンリケスが、カスティーリャ王アルフォンソ 7世と戦いを交えた。
- 1137年、ポルトカレ伯アフォンソ・エンリケスとカスティーリャ王アルフォンソ 7世との間で、トゥイ条約が結ばれた。
この条約の中で、ポルトカレ伯はカスティーリャ国王への封建的主従関係を認めていた。
- 1139年、ポルトカレ伯アフォンソ・エンリケスは、オーリッケの戦いでカスティーリャ王アルフォンソ 7世の軍を撃ち破った。
- 1143年、アフォンソ・エンリケスとカスティーリャ王アルフォンソ 7世との間でサモラの条約が結ばれ、ポルトガルが王国となることが認められた。これ以後、アフォンソ・エンリケスはポルトガル王アフォンソ1世と称した。
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