東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のポルトガル」

リスボン、シントラ、オビドス、ナザレなど

ポルトガル略年表 h11. 共和制と独裁制

  • 1890年、ヴィクトリア女王統治下の大英帝国イギリスはザンビア・ジンバブエなどに駐留していたポルトガル軍に撤退を要求した。イギリスの圧力に屈したポルトガル政府は、ザンビア・ジンバブエを放棄せざるを得なくなった。

    ポルトガル国民は、国益の喪失に関して進歩党のカストロ内閣を攻撃し、同内閣は総辞職を余儀なくされた。

  • 1902年、イギリス王エドワード7世がリスボンを訪問。その記念として造られたのがリスボン市内にあるエドワード7世公園だった。

  • 1906年、暗礁に乗り上げた政情の打破の為にポルトガル国王ドン・カルロスがジョアン・フランコの独裁を認めた。

  • 1908年、リスボンに於いてポルトガル国王ドン・カルロスと王太子ドン・ルイスが共和主義者によって暗殺された。ポルトガル王位を継承したマヌエル2世は、宥和政策を採りジョアン・フランコを罷免した。

  • 1910年10月3日、共和主義者が反乱を起こした。反乱側の海軍軍艦は王宮を砲撃し、ポルトガル国王マヌエル2世はリスボンを脱出した。

    同年10月5日、共和制が宣言され、マヌエル2世と王族達はイギリスに亡命し、ポルトガルの革命によってブラガンサ家による王政が廃止された

  • 1911年、共和国憲法が制定された。しかし、大統領指名をめぐって共和主義者は分裂し、政情は安定しなかった。同年、北部に於いて王党派軍人の反乱が起こったが、政府軍に鎮圧された。

  • 1914年、第一次世界大戦が勃発。失った植民地の奪還を目指す勢力は、ポルトガルの参戦をもくろんだ。

  • 1916年、参戦を主張する民主党政権は、ポルトガル国内に停泊していたドイツ艦船を拿捕し、ドイツとの戦いに参戦した。しかし、膨れ上がった戦費の負担は、国内の暴動を引き起こす結果となった。

  • 1917年、親ドイツ派の軍人シドニオ・パイスは、国内の不満に乗じてクーデターを起こし、軍事独裁体制を樹立した。

  • 1918年、独裁者シドニオ・パイスは、リスボン市内で急進的な共和主義者によって暗殺された。

  • 1919年、ポルトガルの北部と南部で王政主義者の反乱が起こったが、政府軍により鎮圧された。

    ポルトガルの政情はシドニオ独裁体制以前の状態に復帰したが、政権は安定せず。以後、1926年の第一共和制崩壊までに45の内閣が成立と崩壊を繰り返した。同様にポルトガル経済も混乱を極め、ストライキが頻発し、物価上昇は20倍以上にも達した。

  • 1925年、リスボンに於いて右派の軍事蜂起が起こったが失敗。

  • 1926年、第一次世界大戦の英雄ゴメス・ダ・コスタ将軍による軍事蜂起が成功し、軍事政権が成立した。

  • 1928年、軍事政権は財政・経済問題の行き詰まりを打破するために、コインブラ大学教授アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザールに大蔵大臣就任を要請した。サラザールは財政に関する拒否権を条件に入閣に同意した。

    サラザールは厳しい引き締め政策によって財政を再建する一方で、公共事業によって失業者を吸収し、国民の支持を得た。アメリカへの経済的な依存度が低いこともあり、世界恐慌はポルトガルには大きな影響を与えなかった。

  • 1932年、国民の支持を得ているサラザールが首相に就任した。同年、イギリスに亡命していた最後のポルトガル国王マヌエル2世が死去。後継者を残さなかった為に、ポルトガルの王政復古の可能性は払拭された。

  • 1933年、サラザールは国民労働規約を制定。全ての労働者は政府の監督する労働組合への加入を強制され、労働運動は政府によってコントロールされることとなった。

    同年、サラザールは、ヒットラーの思想に従う極右団体の機関紙を発行停止とし、その本部を閉鎖し、翌年には指導者を国外に追放して、極右の動きを封じ込めた。

  • 1936年、スペインにおいて内乱が勃発。サラザールはフランコ側にポルトガルの義勇兵を送り込んだ。(最終的には独裁者フランコがスペイン内戦に勝利を得た。)

    他方、ポルトガルからスペインに亡命していた共和主義者は、人民戦線側に立って戦っていた。

  • 1939年、第二次世界大戦が勃発。サラザール政権は直ちに中立を宣言した。

  • 1940年、サラザールは、第一次共和政時代に断絶していたローマ教皇庁との関係を修復した。

  • 1943年、サラザールはイギリスと秘密協定を結び、アゾレス諸島にある基地をイギリス軍が使用すること認めた。更にサラザールはアメリカ軍にも基地の使用を認めた。その条件は、日本軍に占領されている東チモールの奪還への協力だった。

  • 1949年、ポルトガルが北大西洋条約機構 NATO に加盟した。東西両陣営の対立は、独裁制下にあるポルトガルの国際社会への復帰を認めざるを得なくしていた。

  • 1951年、カルモナ大統領死去。サラザールは大統領選挙への出馬を固辞し、クラヴェイロ・ロペス将軍を当選させた。

  • 1955年、ポルトガルが国際連合に加盟。

  • 1958年、大統領選挙において反サラザール陣営の推すウンベルト・デルガード将軍が支持を集めた。しかし、サラザール政府による選挙への干渉により、サラザール派のアメリコ・トマス海軍提督が大統領に当選した。

    この選挙に危機感を高めたサラザール政権は、反体制運動に対する弾圧を強めていった。

  • 1960年、ポルトガルの大航海時代を切り開いたエンリケ航海王子没後 500年を記念して、発見のモニュメント(リスボン)が建設された。

    同年、ポルトガルがヨーロッパ自由貿易連合 EFTA に加盟。

    「アフリカの年」とも呼ばれるこの年、イギリス・フランス支配下にあったアフリカ諸国が次々と独立を果たした。

  • 1961年、「サンタ・マリア号事件」。サラザール政権に反対するポルトガル人らがカリブ海で客船サンタ・マリア号をのっとり、国際社会にサラザール政権の非道を訴えた。

    他方、アメリカのケネディ政権は、ポルトガルの植民地支配に対する抵抗を支援し始めた。

    アンゴラにおいてはポルトガルに対する独立の動きが強まり、やがてポルトガルを13年間に及ぶ戦争に引きずり込んでいった。また、インドはポルトガル領のゴア、ダマン、ディウを武力で奪還した。

  • 1962年、ポルトガル国内では、学生・労働者の間に反サラザール政権の動きが広まっていった。

  • 1963年、ポルトガルの植民地ギニア・ビサウで独立戦争が始まった。

  • 1964年、ポルトガルの植民地モサンビークで独立戦争が始まった。

  • 1968年9月23日、サラザール首相が政界から引退した。リスボン大学法学部教授で穏健派のマルセル・カエターノが首相に就任した。

    しかし、カエターノ新首相の許での改革の遅さに苛立つ動きがポルトガル国内に広がる一方で、軍事力による植民地の維持に固執する勢力もあり、ポルトガルの政情は次第に不安定化し始めていた。

  • 1970年、ポルトガルを出国する移民の数が 17万人を越えた。同年のポルトガルの出生数は 8万人にも達しなかった。

  • 1971年、各地で続く独立戦争に対処するための軍事費は、国家予算の 45%にまで達していた。

  • 1973年、第四次中東戦争においてポルトガルはアメリカを支持した為に産油国の制裁を受け、インフレが激化した。

  • 1974年4月25日、カエターノ政権に不満をもつ軍の一部が進撃を開始し、リスボンの放送局を占拠してクーデターを宣言した。民衆がクーデターを支持した為に、政府軍は鎮圧に動くことが出来ず、ついに長い独裁体制が崩壊した。

    スピノラ将軍が臨時大統領となり、改革を進めることとなった。

    同年、独裁制から解放された労働者は、一斉に賃上げを要求してストライキを始めた。ストライキと賃上げは既に30%ものインフレ率に苦しんでいたポルトガル経済を更に悪化させることとなった。

    他方、国家評議会は植民地独立を承認するための憲法上の手続を完了した。やがて、ギネ・ビサウ、カボ・ヴェルデ、アンゴラ、サン・トメ=プリンシペなどの植民地が独立することとなる。

  • 1975年、ポルトガルとインドとの間に友好条約が調印された。これにより、ゴアの武力解放から続いていた両国の対立に終止符が打たれた。

    他方、革命政権は、大企業を国有化した。また、農業経営の協同組合化が進められた。

  • 1976年、民政移管が決定され、ポルトガルにおいて1926年以来の自由な選挙が行われた。

    同年、ポルトガルのEC加盟の為の交渉が始まった。

  • 1986年、ポルトガルがECに加盟した。

  • 1988年、国有化された企業の段階的な民営化が始まった。

  • 1992年、ポルトガル議会は圧倒的な多数でマーストリヒト条約を批准した。

  • 1999年、ポルトガルが支配してきたマカオの主権が中国に返還された。


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