東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のポルトガル」

リスボン、シントラ、オビドス、ナザレなど

ポルトガル略年表 h10. 内戦と危機

  • 1826年、ポルトガル国王ジョアン6世死去。長子ドン・ペドロはブラジル皇帝となっていたために王位継承問題が起こった。

    イギリスの支持を受けたブラジル皇帝ドン・ペドロは、ブラジルでポルトガル国王ペドロ4世として即位し、そのポルトガル王位を直ちに王女マリア・ダ・グロリアに譲り、7歳の王女がポルトガル女王マリア2世として即位した。

    ポルトガル国内の反動勢力との和解の為に、ウィーンに亡命していた王子ドン・ミゲルがマリア2世と結婚し、摂政となることが条件とされていた。

  • 1828年、摂政となった王子ドン・ミゲルは、マリア2世のポルトガル王位を認めず、自らが正当なポルトガル王であることを宣言し、反動的な統治を始めた。ポルトガル国内の自由主義者は弾圧され、亡命を余儀なくされた。

    ブラジル皇帝ペドロ1世は、皇位を息子のペドロ2世に譲り、娘であるポルトガル女王マリア2世と共にフランスに渡り、ドン・ミゲルに対抗し始めた。

  • 1832年、かつてのブラジル皇帝ペドロ1世は、イギリス人・フランス人からなる傭兵隊を率いてポルトガルに上陸し、ドン・ミゲルとの内戦が始まった。

  • 1833年、ペドロ1世軍の艦隊がドン・ミゲル軍の艦隊を撃破。自由主義勢力はリスボンに迫り、ドン・ミゲルはリスボンから脱出した。同年、イギリスとフランスの政府は、ポルトガル女王マリア2世の自由主義政府を承認した。

  • 1834年、敗北を重ねたドン・ミゲルが降伏し、イタリアに亡命した。内戦は終結したが、ポルトガル経済は危機に瀕していた。同年、かつてのブラジル皇帝ペドロ1世が亡くなった。

  • 1836年、自由主義急進派がリスボンで反乱を起こし、政府は総辞職した。

  • 1842年、ベルナルド・コスタ・カブラルによるクーデターが成功し、政権を掌握した。

  • 1846年、カブラル政権に対する反乱が起こり、全国に広がった。ポルトガル女王マリア2世がカブラルを罷免したが、更にイギリス軍とスペイン軍に介入を依頼し、反乱は鎮圧された。

  • 1849年、再びカブラル派がポルトガルの政権を掌握。

  • 1851年、反カブラル派のサルダーニャが政権に復帰した。以後、サルダーニャを指導者とする刷新党とロレ公爵を指導者とする歴史党の二大政党による政権交代が続き、1890年までポルトガル国内の政情は安定を示していた。


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