東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
01. ワラキア公国の成立まで
- 紀元前1000年頃、トラキア系ダキア人が現在のルーマニアの地に独自の国家を建設した。
- 紀元前6世紀、古代ギリシャ人によって黒海沿岸の街コンスタンツァが建設された。
- 紀元前4世紀、ケルト人がダキアにまで進出した。
- 紀元前70年、部族連合の首長ブレビスタが古代ダキアを統一した。
- 紀元前44年、古代ローマに抵抗を続けていた古代ダキアの王ブレビスタが死去。その後、彼が作り上げたダキア王国は再び部族国家に分裂した。
- 西暦101年、古代ローマ帝国の皇帝トラヤヌスが、古代ダキア征服のための戦争(ダキア戦争)を始めた。ローマを中心とするイタリア各地から、古代ローマ帝国の兵士たちがダキアにやってきた。
- 西暦106年、古代ローマ帝国の皇帝トラヤヌスが、ダキアの王デケバルス(あるいはデチェバル)の軍を撃ち破り、デケバルスは自殺。以後、古代ローマ帝国に征服されたダキアの地(現在のルーマニア)に多くのローマ人が移住し始めた。
- 西暦271年、東ゴート族とサルマティア族の侵攻に耐えかねた古代ローマ帝国の軍団が、ダキアから撤退した。
その後、ダキアの地には、西ゴート族、フン族、ブルガル族(やがてブルガリアを建設する)、アヴァール族などが侵入し、混乱は5世紀まで続いた。
- 9世紀末、マジャール人がモルドヴァ(ルーマニアの東北部)に侵入した。
- 西暦1000年、アルパード朝のイシュトヴァーンがローマ・カトリックに改宗し、初代ハンガリー国王となった。
ハンガリー王イシュトヴァーンは、トランシルヴァニア(「森の彼方の土地」)地方の住民をローマ・カトリックに改宗させようとして、ギリシャ正教を信じる人々との間に摩擦を生じた。
聖イシュトヴァーン王に続く歴代のハンガリー王たちは、ローマ・カトリックを信じるドイツ系の農民達をトランシルヴァニアに移住させた。
- 1211年、ドイツ騎士団によってトランシルヴァニアにブラショフの街が建設された。
- 1241年、モンゴル軍がモルドヴァとトランシルヴァニアに侵入し、ハンガリー王国軍を打ち破った。
- 1247年、ハンガリー王ベラ4世は、タタール人に対する守りを固めるために、トランシルヴァニアにおいて聖ヨハネ騎士団に土地を与えた。
- 13世紀半ば以後、モンゴル軍の侵攻によって荒廃したトランシルヴァニアの復興の為に、多くのドイツ系の人々が移住して来た。
- 13世紀末、自立化の動きを強めたトランシルヴァニアの貴族達は、農民に対する圧迫を強め、土地を失ったルーマニア系の農民達はワラキア(ヴァラキア)とモルドヴァに移り住んだ。
- 1290年、ラドウ公によってワラキア公国が建設された。当時のワラキア公国は、ハンガリー王国の強い影響力の許にあった。
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