東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
02. ワラキア公バサラブ1世の時代
- 1299年、モルドヴァがタタール人の支配を逃れた。
- 1330年、ワラキア(ヴァラキア)貴族バサラブ1世が、ルーマニアに勢力を伸ばそうとしていたハンガリー軍を打ち破り、ワラキアのヴォエヴォド(公)となった。
バサラブ1世の時代に、ワラキア公国はハンガリー王国の影響力から逃れ出ることが出来た。
ちなみに、このバサラブ1世は、後のワラキア公ヴラッド・ツェペシュ(ドラキュラのモデル)の祖先でもある。
また、バサラブ1世の時代に、クルテア・デ・アルジェシュの街がワラキア公国の首都となった。
- 1349年、トランシルヴァニアの貴族ボグダンがモルドヴァ方面に勢力を広げた。
- 1359年、ハンガリー軍を破ったボグダンの支配する領域が、モルドヴァ公国となった。
同じ年、コンスタンティノープルの総主教により、中世ワラキア公国の首都クルテア・デ・アルジェシュに府主教座が置かれた。
- 1370年、ヨーロッパに進出してきたオスマン・トルコ軍がワラキアに侵入し、ワラキア軍とオスマン・トルコ軍が初めて交戦した。
- 1377年から1378年にかけて、トランシルヴァニアとワラキアの間の街道にブラン城が築かれた。
- 1383年、ブカレストが中世ワラキアの首都となった。
- 1389年、コソヴォの戦いにおいてオスマン・トルコ軍が勝利。セルビア王国やボスニア王国もオスマン・トルコに臣従せざるを得なくなった。
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