東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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03. ヴォエヴォドの教会
(クルテア・デ・アルジェシュ、ルーマニア)
中世ワラキア公国の古都クルテア・デ・アルジェシュを代表する建物の一つは、さっき見てきたマノレ修道院なんだけど、もう一つ大事な建物があるんだ。
それが、「ヴォエヴォドの教会」と呼ばれる建物。
その「ヴォエヴォドの教会」の周囲を守る城壁の入り口の一つが右の画像なんだ。つまり、中世のワラキアでは、ときおり襲い掛かってくるオスマン・トルコの兵士達から教会を守るために、城壁を必要としていたんだね。
ワラキアのヴォエヴォド(公)
ヴォエヴォドというのは、強いて日本語に訳せば「公」(あるいは、君主)という意味の言葉なんだ。つまり、ワラキアのヴォエヴォドはワラキア公、モルドヴァのヴォエヴォドはモルドヴァ公というわけだ。
そして、右の画像に写っているのが、14世紀前半にワラキアのヴォエヴォドとなり、ハンガリー軍と戦ってワラキア公国の独立を勝ち取ったバサラブ1世の像だ。
この人物が、この「ヴォエヴォドの教会」を建てたらしい。だから、教会の横に右の画像にある像が立っているのかもしれないね。
ちなみに、上のバサラブ1世の孫の孫にあたるヴラッド・ツェペシュ(串刺し公=ドラキュラのモデル)も、ワラキアのヴォエヴォドになっている。それも三回(1448年、1456-1462年、1476年)。
なんでまた何度も即位したり追放されたりと忙しいかと言えば、まずはバサラブ1世の子孫達の間で公位争いが激しかったこと。公位継承順序を決めるルールが無かったことと、バサラブ1世の子孫達の中で有力な二つの系統(ヴラッド・ツェペシュが属する家系とダネスティ家)が争っていたことが背景にあるみたい。
しかも、当時のバルカンの強国ハンガリーとオスマン・トルコとの間に挟まれ、双方の影響がルーマニアに及んでいたことも大きかったんだね。
更に、当時のワラキアの貴族たちの存在。彼らは、中央集権的な政府の成立を嫌った上に、ときにはハンガリー(及びトランシルヴァニア)側につき、あるいはオスマン・トルコ側に立ち、その時々で立場を変えていたみたいなんだ。
ワラキア公ヴラッド・ツェペシュ(串刺し公)も、そんな状況で随分と苦労したみたい。ついつい手荒なことをしちゃって、後にはドラキュラのモデルになってしまったわけだ。
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