東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
05. 流浪のワラキア公ヴラッド・ツェペシュ
- 1448年、オスマン・トルコの支援を得たヴラッド・ツェペシュ(串刺し公 あるいはヴラッド3世)が、ワラキアのヴォエヴォド(公)となった。
しかし、その数ヵ月後、トランシルヴァニアのフニャディ・ヤーノシュの支援を受けたダネスティ家のヴラディスラフ2世により、ワラキア公位を奪い返された。
余談ながら、フニャディ・ヤーノシュの息子は、後のハンガリー王マーチャーシュ(即位 1458年)である。
- 1449年、ワラキアのヴォエヴォド(公)の地位を失ったヴラッド・ツェペシュは、叔父ボグダン2世がヴォエヴォドとなっていたモルドヴァに向かった。
- 1451年、オスマン・トルコとの条約により、ヴラディスラフ2世治下のワラキアの独立的な地位が認められた。しかし、ワラキアはオスマン・トルコに対する貢納の義務を負っていた。
同じ頃、叔父のモルドヴァ公ボグダン2世が暗殺され、ヴラッド・ツェペシュとシュテファン(後のモルドヴァ公)はトランシルヴァニアに逃れ、フニャディ・ヤーノシュの保護を受けた。
- 1453年、オスマン・トルコがコンスタンティノープルを攻略し、ビザンチン帝国が滅亡した。
コンスタンティノープルとの交易によって利益を得ていたワラキア公国やモルドヴァ公国は、ビザンチン帝国の滅亡によって経済的にも打撃を受けた。
加えて、オスマン・トルコに対する防衛を強化するために、ハンガリー王に服属するトランシルヴァニアのフニャディ・ヤーノシュが、短期間ながらワラキアに侵攻した。
- 1454年、オスマン・トルコは、ワラキア経由でトランシルヴァニアの街シビウを攻略することを狙っていた。
シビウ大聖堂 (トランシルヴァニア、ルーマニア)
右上の画像は、現在のシビウ大聖堂の様子。トランシルヴァニアのルーマニア人の多くが信仰する正教の教会である。
複雑な歴史を反映し様々な宗派を信じる様々な民族の住むトランシルヴァニアの街シビウには、正教以外にもルター派の教会やカトリックの教会がある。
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- 1455年、オスマン・トルコの軍事的圧力に屈し、モルドヴァがオスマン・トルコに貢納することとなった。
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