東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
04. ヴラッド・ツェペシュ(ドラキュラのモデル)の誕生
- 1431年、後にワラキアのヴォエヴォド(公)としてオスマン・トルコと戦ったヴラッド・ツェペシュ(やがて、ドラキュラのモデルとなった)が、トランシルヴァニアの街シギショアラで生まれた。
ヴラッド・ツェペシュの父は悪魔公ヴラッド・ドラクル(ワラキア公として在位 1436-1442)、祖父はミルチャ老公(ワラキア公として在位 1386-1418)だった。ちなみに、ミルチャ老公の祖父は、ワラキア公国独立の英雄でもあるバサラブ1世だった。
- 1431年、オスマン・トルコ軍がトランシルヴァニアに侵入し、ブラショフ付近で略奪を行った。
同じ年、ヴラッド・ツェペシュの父ヴラッド(2世)は、オスマン・トルコに対する戦いによって、神聖ローマ皇帝よりドラゴン騎士団の騎士に叙任された。
以後、ヴラッド・ツェペシュの父ヴラッド2世は、ヴラッド・ドラクルと呼ばれた。ちなみに、ルーマニア語では「ドラクル」は悪魔を意味する。
ついでながら、ルーマニア語では、「ドラクレア」は「ドラクル」の息子を意味する。よって、ヴラッド・ドラクルの息子であるヴラッド・ツェペシュ(串刺し公)は、ヴラッド・ドラクレアとも呼ばれた。
- 1436年、ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝・ハンガリー王ジギスムントの支持を得たヴラッド・ドラクル(悪魔公)は、対立するダネスティ家出身のワラキア公アレクサンドル1世を暗殺し、ワラキアのヴォエヴォド(公)に即位した。
- 1438年、オスマン・トルコの圧力に屈したヴラッド・ドラクル公は、トルコ軍のトランシルヴァニア侵攻作戦に参加せざるを得なかった。
- 1441年、フニャディ・ヤーノシュがトランシルヴァニア公となった。
- 1442年、ヴラッド2世ドラクル公は、増大するオスマン・トルコの圧力に屈し、トランシルヴァニアへ侵攻するトルコ軍に参加せざるを得なかった。
しかし、オスマン・トルコ軍はトランシルヴァニアにおいてフニャディ・ヤーノシュ指揮下のハンガリー軍に敗北。ヴラッド2世ドラクル公はワラキアから亡命し、トルコを頼って行くこととなった。
- 1443年、オスマン・トルコ軍の支援を得たヴラッド2世ドラクル公がワラキアのヴォエヴォド(公)として復位。
しかし、ワラキア公国はイェニチェリ軍団の兵士となる少年達を差し出すことを義務付けられた。
- 1444年、ワラキア公ヴラッド2世の次男ヴラッド・ツェペシュ(後のドラキュラのモデル)と三男ラドウが、人質としてオスマン・トルコに送られた。
ヴラッド・ツェペシュは、人質としての5年間に、トルコ語やトルコ軍の戦術などを習得した。
同じ年、ハンガリー王国のトランシルヴァニア総督フニャディ・ヤーノシュがオスマン・トルコに対して攻撃を開始。軍事作戦への参加を要求されたワラキア公ヴラッド2世は、長男のミルチャをハンガリー軍に参加させることとなった。
しかし、ヴァルナの戦いにおいて、フニャディ・ヤーノシュの率いたハンガリー軍は、オスマン・トルコによって壊滅的な敗北を蒙った。
- 1447年、ヴラッド・ツェペシュの父ヴラッド2世ドラクル公と長男のミルチャが暗殺された。新しいワラキア公となったのは、ハンガリーのフニャディ・ヤーノシュの支持を得たダネスティ家のヴラディスラフだった。
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