東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
06. ヴラッド・ツェペシュ公(ドラキュラのモデル)の戦い
- 1456年、トランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュとワラキア公ヴラディスラフ2世との関係が悪化した。フニャディ・ヤーノシュは、ヴラディスラフ2世に対抗させるために、ヴラッド・ツェペシュを支援した。
ドラキュラのモデルとなったヴラッド・ツェペシュ(串刺し公)が、二度目のワラキア公(ヴォエヴォド)に即位。
即位後のヴラッド・ツェペシュは、ワラキア貴族たちを抑圧し、ワラキアの中央集権化を進めようとした。
右の画像は、ヴラッド・ツェペシュ公の肖像(ルーマニアで買った絵葉書より)。
同じ年、フニャディ・ヤーノシュ指揮下の軍が、ベオグラードにおいてオスマン・トルコ軍を撃破した。しかし、フニャディ・ヤーノシュはベオグラード近郊において死去した。
他方、モルドヴァ公国はオスマン・トルコの宗主権を承認した。
- 1457年、ワラキア公ヴラッド・ツェペシュの支援により、その従弟のシュテファンがモルドヴァ公となった。
同じ頃、フニャディ・ヤーノシュを失ったトランシルヴァニアでは、貴族間の争いが激化していた。
トランシルヴァニアの街シギショアラを本拠とする貴族ミハイル・シラージは、同じくトランシルヴァニアの街シビウを攻撃したが失敗に終わった。
他方、ワラキア公ヴラッド・ツェペシュとトランシルヴァニアの商都ブラショフとの間では、対立が深まっていた。その背景には、ワラキアの商業を育成するためにトランシルヴァニア商人を締め出そうとしたヴラッド・ツェペシュの経済政策があった。
- 1458年、対オスマン・トルコ戦で活躍したフニャディ・ヤーノシュの息子マーチャーシュ(あるいは、マティアス・コルヴィヌス)がハンガリー王に即位。トランシルヴァニアの街コロジェヴァール(現ルーマニア領クルジュ・ナポカ)生まれのマーチャーシュは、当時17歳だった。
新しいハンガリー王は、ワラキア公ヴラッド・ツェペシュとも友好的な関係にあるミハイル・シラージ(トランシルヴァニアのシギショアラに本拠を置く)と叔父・甥の関係にあった。その結果、ハンガリーとワラキアとの友好関係も更に強化された。
同じ年、トランシルヴァニア総督に任じられたミハイル・シラージの仲介により、ワラキア公ヴラッド・ツェペシュとトランシルヴァニアの商都ブラショフ 及び シビウとの間に和解が成立した。
- 1459年、ワラキア公ヴラッド・ツェペシュは、中央集権化を進めるために、多くの貴族を殺害した。
また、ヴラッド・ツェペシュを公位から追放しようとしたワラキアの大貴族を打ち破り、ヴラッド・ツェペシュの権力が強化された。
同じ頃、メフメット2世治下のオスマン・トルコへの貢納金の額が1万ドゥカットに増額されたことを機会に、ヴラッド・ツェペシュは貢納を拒絶した。オスマン・トルコはワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求したが、ヴラッド・ツェペシュはトルコの使者を生きたままで串刺し刑に処した。
他方、ヴラッド・ツェペシュはドンボヴィツァ(現在のブカレスト)に要塞を建設してオスマン・トルコとの戦いに備えた。
また、ヴラッド・ツェペシュ公は、再びトランシルヴァニア商人をワラキアから締め出す政策を採り、トランシルヴァニアの商都ブラショフ 及び シビウとの関係が悪化した。
ヴラッド・ツェペシュ公はブラショフ市出身の多くの商人たちを串刺し刑に処したと言われている。
- 1460年、ダネスティ家出身の前ワラキア公ヴラディスラフ2世の息子ヴラディスラフ・ダンが、ワラキア公の地位を奪うために、トランシルヴァニアに亡命していた貴族たちと共にワラキアに侵攻した。
しかし、侵攻は失敗に終わり、ヴラディスラフ・ダンと貴族たちは捕らえられて串刺し刑に処された。
更に、ヴラッド・ツェペシュはトランシルヴァニアに侵攻し、政敵を支援したブラショフ市周辺を劫略し、多くの人々を串刺し刑に処した。やがて、ブラショフ市はワラキア公との和解を余儀なくされた。
- 1462年、メフメット2世治下のオスマン・トルコは、貢納を要求する使者をワラキア公ヴラッド・ツェペシュの許に派遣した。しかし、ワラキア公はトルコの使者を串刺し刑に処した。
更に、ワラキア公は軍をドナウ川の南のオスマン・トルコ領(現在のブルガリア)に進め、略奪を行い、トルコ軍の拠点を攻撃した。
対して、オスマン・トルコのメフメット2世は大軍を率いて北上を開始。しかし、ワラキア公はトルコ軍の糧道を絶つ一方で、ゲリラ戦・奇襲・夜襲を以って敵を翻弄し、多くのトルコ兵を殺害した。
また、ワラキア公は、トルコ軍の士気を低下させるために、多くのトルコ兵の遺体を串刺しにしてさらしたとも言われる。
オスマン・トルコのメフメット2世は、やむなくルーマニアから兵を引いた。ワラキア公ヴラッド・ツェペシュのトルコに対する勝利は、ハンガリー王マーチャーシュ(マティアス・コルヴィヌス)によってキリスト教諸国に伝えられた。
しかし、ヴラッド・ツェペシュ公の専制的な政策に反発を強め、またオスマン・トルコとの戦いに疲弊していたワラキアの貴族たちは、ヴラッド・ツェペシュ公から離反し始めた。
他方、オスマン・トルコの宮廷では、ヴラッド・ツェペシュ公の実弟ラドウをワラキア公として擁立する政策を採り、ラドウに軍事的な支援を与えた。
その年、オスマン・トルコを打ち破ったワラキアの英雄ヴラッド・ツェペシュ公はワラキアのヴォエヴォドとしての地位を、実弟のラドウに奪われてしまった。ワラキアは再びオスマン・トルコに貢納を支払う属国の地位に落ちてしまった。
ワラキアの公位を失ったヴラッド・ツェペシュは、ハンガリー王国統治下のトランシルヴァニアに亡命して行った。しかし、新ワラキア公ラドウを承認することにしたハンガリー王マーチャーシュによって、ヴラッド・ツェペシュ公は幽閉されてしまった。
下の画像は、ルーマニアとハンガリーとの間の国境を流れるドナウ川の様子。ハンガリーの首都ブダペスト近くで撮影したもの。
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