東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
07. 混乱のワラキア公国
- 1465年、モルドヴァのシュテファン大公によって、オスマン・トルコによって支配されていたキリア(現在のルーマニア東南部)が占領された。
- 1460年代半ば、ハンガリー王マーチャーシュ(マティウス・コルヴィヌス)によって幽閉されていたヴラッド・ツェペシュだったが、ハンガリー王の妹と結婚し、二人の息子を得た。
- 1470年、ラドウ公治下のワラキアと、シュテファン大公治下のモルドヴァが対立し、モルドヴァ軍がワラキアに侵入した。
- 1470年代、モルドヴァのシュテファン大公が幾度かオスマン・トルコ軍を打ち破った。
他方、ラドウ公治下のワラキア公国は、オスマン・トルコに対する臣従の度合いを深め、トルコが派遣する遠征軍へのワラキア軍の参加さえも命じられる状態となっていた。
- 1473年、モルドヴァのシュテファン大公の率いる軍がブカレストを占領。シュテファン大公によって、ライオタ・バサラブがワラキア公として擁立された。
同年冬、オスマン・トルコ軍によって支援されたラドウ公がブカレストを奪還。勢いに乗ったトルコ軍は、シュテファン大公の支配するモルドヴァに侵攻した。
ブカレスト大聖堂 (ルーマニア)
右上の画像は、現在のブカレスト大聖堂の様子。ワラキアのルーマニア正教の中心たる府主教座は、1668年にブカレストに設けられた。その後、1865年にはルーマニア正教はコンスタンティノープルの総主教から独立し、このブカレスト大聖堂がルーマニア正教の総本山となった。
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- 1474年、ワラキア公の地位をめぐり、三人の候補者が争いを繰り広げた。一人はモルドヴァ公の支援するライオタ・バサラブ公、次いでオスマン・トルコによって支援されたラドウ公、更にトランシルヴァニア公シュテファネス・バトリーの支持するバサラブ・小ツェペシュだった。
しかし、最後にワラキア公の位を確保したのは、オスマン・トルコによって支援されていたラドウ公だった。
同年、ハンガリー王マーチャーシュによって12年間も幽閉されていた元のワラキア公ヴラッド・ツェペシュが釈放された。ハンガリー王は彼をオスマン・トルコとの戦いの同盟者とするつもりだった。
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