東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
08. 串刺し公ヴラッド・ツェペシュの復活と死
下の画像は、現在のブラショフの街。スファトゥルイ広場の向こうには、黒の教会が見えている。
- 1476年、シュテファン・バトリー指揮下のハンガリー軍とシュテファン大公のモルドヴァ軍が、オスマン・トルコ軍との戦いを繰り広げた。その戦いに参加したヴラッド・ツェペシュ公は、再び対トルコの英雄となった。
シュテファン・バトリー指揮下のハンガリー軍の支援を得たヴラッド・ツェペシュ(串刺し公)がブカレストを占領し、トルコと手を結んでいたライオタ・バサラブ公を追放し、三度目のワラキア公(ヴォエヴォド)に即位した。
敗れたライオタ・バサラブ公はオスマン・トルコ支配下のブルガリアに逃れ、トルコ軍に救援を求めた。
- 1477年(あるいは1476年末)、しばしばオスマン・トルコ軍を打ち破り、多くのトルコ兵たちを串刺し刑に処したワラキア公ヴラッド・ツェペシュ(串刺し公)が、ブカレスト近郊でのオスマン・トルコ軍との戦いにおいて戦死。(ワラキア貴族による謀殺との説もある。)
ヴラッド・ツェペシュ公の死後、ワラキア公国は再びオスマン・トルコの従属国となった。
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