東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
09. オスマン・トルコによる征服
- 1477年(あるいは1476年末)、しばしばオスマン・トルコ軍を打ち破り、多くのトルコ兵たちを串刺し刑に処したワラキア公ヴラッド・ツェペシュ(串刺し公)が、ブカレスト近郊でのオスマン・トルコ軍との戦いにおいて戦死。(ワラキア貴族による謀殺との説もある。)
ヴラッド・ツェペシュ公の死後、ワラキア公国は再びオスマン・トルコの従属国となった。
- 1480年、増大する圧力に屈したモルドヴァのシュテファン大公が、オスマン・トルコと和約を結び、貢納を約束した。
その結果、ポーランド王国との対立が先鋭化し、モルドヴァ公国とポーランド王国との戦いが続いた。
他方、オスマン・トルコはエーゲ海のロードス島に侵攻したが、聖ヨハネ騎士団の抵抗を撃ち破ることが出来ずに撤退した。
- 1481年、ヴラッド・ツェペシュの庶出の弟のミルチャが、ワラキアのヴォエヴォド(公)に即位した。
- 1482年、ヴラッド・ツェペシュの庶出の弟のヴラッドが、ワラキアのヴォエヴォド(公)に即位した。
- 1491年、ハンガリー王やトランシルヴァニア公シュテファン・バトリーの要求に従い、ワラキア公ヴラッド(ヴラッド・ツェペシュの庶出の弟)がトランシルヴァニア商人に対して、ワラキア領内での商業活動の自由を認めた。
- 1495年、オスマン・トルコとハンガリーとの間に講和が成立した。
- 1504年、モルドヴァのシュテファン大公が死去。その後、スレイマン大帝の支配下で更に強大化するオスマン・トルコに対し、モルドヴァ公国は隷属的な地位に落ちていった。
- 1514年、ハンガリー貴族支配下のトランシルヴァニアで大規模な農民反乱が起こり、ハンガリー軍が弱体化した。
- 1517年、ワラキア公ネアゴエ・バサラブによって、ワラキアの古都コルテア・デ・アルジェシュにマノレ修道院が建立された。
下の画像は、今もコルテア・デ・アルジェシュで見ることの出来るマノレ修道院。緑に囲まれた姿が美しい。
- 1520年、オスマン・トルコのスルタンとしてスレイマン1世(大帝)が即位した。
- 1521年、スレイマン1世治下のオスマン・トルコがベオグラードを征服した。
- 1522年、オスマン・トルコのスレイマン1世が聖ヨハネ騎士団の本拠となっていたロードス島に侵攻。数ヶ月間に渡って抵抗した聖ヨハネ騎士団は、ロードス島をオスマン・トルコに引渡し、やがてマルタ島に拠点を移した。
- 1526年、ハンガリー国内の混乱に乗じて進出してきたスレイマン1世指揮下のオスマン・トルコ軍に対し、ラヨシュ2世指揮下のハンガリー軍がモハチの戦いにおいて大敗を喫した。
この戦いでヤゲロ家のハンガリー王・ボヘミア王ラヨシュ2世が戦死し、ハプスブルク家のフェルディナントがボヘミアとハンガリーの王となった。
しかし、オスマン・トルコ側は、トランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュをハンガリー王とした。
- 1527年、シュテファン大公の息子ペトル・ラレシュがモルドヴァ公となった。
ペトル・ラレシュは、ハプスブルク家の支援を得て、オスマン・トルコの支配から逃れようと試みた。
- 1529年、オスマン・トルコのスレイマン1世(大帝)によるウィーン包囲。しかし、ウィーンを攻略することが出来ず、トルコ軍は撤退した。
- 1533年、オスマン・トルコとハプスブルク家のフェルディナントとの間に講和が成立し、オスマン・トルコ保護下のサポヤイ・ヤーノシュがトランシルヴァニア及びハンガリーの大部分を支配することが承認された。
- 1538年、オスマン・トルコのスレイマン大帝がモルドヴァへ侵攻。モルドヴァ公ペトル・ラレシュはトランシルヴァニアへ逃れ、モルドヴァ公国はオスマン・トルコに隷従することとなった。
- 1539年、トランシルヴァニア公にしてハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュ死去。その地位を継承したのは生まれたばかりの息子ジグモント(あるいは、ヤン・ジギスムント・サポヤイ)だった。
対して、ハンガリーに関する権利を主張していたハプスブルク家のフェルディナントは、軍を派遣してハンガリーに侵攻させた。
- 1541年、ハンガリー王国の首都ブダがオスマン・トルコによって征服された。以後、ハンガリー王国は実質的に崩壊。
オスマン・トルコはハンガリー中央部を直轄地とした。東部はサーポヤイ・ヤーノシュの息子ジグモンドに与えてトランシルヴァニア候国とした。他方、ハプスブルク家の支配は、ハンガリーの西部と北部だけを支配していた。
- 1543年、ハプスブルク家のフェルディナントが軍を派遣してブダペストを包囲。対抗するオスマン・トルコもハンガリーに軍を進め、ハプスブルク家によるハンガリー制圧を阻止した。
- 16世紀後半、宗教改革の波がトランシルヴァニアに及び、ドイツ系・ハンガリー系の人々の多くはルター派プロテスタントに改宗した。
- 1562年、ハプスブルク家のフェルディナントは、トランシルヴァニアに関する権利を放棄し、オスマン・トルコに対する貢納の支払いを承諾した。
- 1565年、ハプスブルク家のマクシミリアン2世がオスマン・トルコに対する貢納金の支払いを拒否し、トランシルヴァニアに関する権利を主張した。
同じ年、オスマン・トルコの大軍が聖ヨハネ騎士団の守るマルタ島に侵攻している。
- 1566年、オスマン・トルコのスレイマン大帝がハプスブルク家に対する遠征を行った。しかし、スレイマン大帝(1世)は戦役の途中で陣没。
- 1568年、オスマン・トルコとハプスブルク家との間の講和が成立した。
- 1570年、トランシルヴァニアの議会により、ローマ・カトリックとプロテスタントに信仰の自由を認めた。
しかし、ルーマニア系の人々の多くが信仰するギリシャ正教(あるいはルーマニア正教)は依然として抑圧され続けた。
- 1571年、イシュトヴァーン・バトリーがトランシルヴァニア公となった。
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