東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
10. ミハイ勇敢公によるルーマニアの統一
- 1593年、ミハイ勇敢公がワラキアのヴォエヴォドに即位した。
- 1595年、ミハイ勇敢公の指揮するワラキア公国軍がオスマン・トルコ軍を撃ち破った。
長くオスマン・トルコに従属していたワラキア公国は、串刺し公ヴラッド・ツェペシュの時代以来久々に自立化の動きを見せた。
- 1599年、トランシルヴァニアに侵入したワラキアのミハイ勇敢公は、ハプスブルク家とバトリー家との争いを利用して、トランシルヴァニア公に即位した。
- 1600年、ワラキアとトランシルヴァニアの支配者ミハイ勇敢公がモルドヴァを征服。ルーマニアを構成するワラキア・トランシルヴァニア・モルドヴァが初めて統一された。
しかし、勢力を拡大するミハイ勇敢公に反発したハプスブルク家は、トランシルヴァニアのハンガリー系貴族達の離反を謀り、他方でポーランド王国はモルドヴァに攻撃を仕掛けた。
この年、血まみれの伯爵夫人とも称されるエルジェベト・バトリーの夫が死去。以後、伯爵夫人の残虐行為は見境がなくなったと言われる。
- 1601年、ワラキア・トランシルヴァニア・モルドヴァを統一したルーマニアの支配者ミハイ勇敢公が暗殺され、ワラキア・モルドヴァ両公国は再びオスマン・トルコの支配に服した。
- 1610年、伯爵夫人エルジェベト・バトリーが住むチェイテ城(トランシルヴァニア)の居城をハンガリー王国の軍が占拠した。城の中からは、伯爵夫人の残虐行為によって殺された多くの女性達の遺体が発見されたとも言われる。
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