東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
11. オスマン・トルコ支配下のワラキア公国
- 1659年、ワラキア公国は、その首都をブカレストに移した。
- 1661年、宰相アフメト・キョプリュリュによって率いられたオスマン・トルコ軍がトランシルヴァニアに侵攻した。しかし、ハプスブルク家に対する決定的な勝利を得ることが出来ず、やがて両者の間に講和が成立。
- 1668年、ワラキア公国の府主教座がブカレストに移された。
- 1683年、オスマン・トルコによる第二次ウィーン包囲が失敗に終わり、オスマン・トルコの力が次第に弱まり始めた。
- 1687年、トランシルヴァニア公国がハプスブルク家の支配下に入った。
- 1688年、オスマン・トルコ軍がトランシルヴァニアから撤退した。
- 1691年、ハプスブルク家の皇帝レオポルト1世が、トランシルヴァニア公となった。
- 1699年、カルロヴィッツの和約により、ハンガリーがハプスブルク領となった。
また、この条約により、オスマン・トルコはハプスブルク家によるトランシルヴァニア支配を承認した。
- 1710年、モルドヴァ公ドゥミトル・カンテミールは、ロシア帝国のピョートル大帝とワラキア公の支援を得て、オスマン・トルコに対する反乱を起こしたが失敗に終わり、ドゥミトル・カンテミールはロシアに亡命した。
反乱を鎮圧したオスマン・トルコは、イスタンブールのギリシャ人(ファナリオット)をワラキア公・モルドヴァ公とし、両公国への支配を強めた。
- 1716年、ハプスブルク家とオスマン・トルコが戦いを交えた。その結果として結ばれたバッサロヴィッツ条約により、ルーマニアのオルテニア地方(ワラキア西部)がセルビアに併合され、ハプスブルク家の支配下に入った。
- 1736年、ロシアと協調したハプスブルク家がワラキアとモルドヴァに侵攻。しかし、オスマン・トルコ軍の反撃に会い、期待した成果を得ることが出来なかった。
- 1746年、ワラキアにおいて農奴制が廃止された。
- 1749年、モルドヴァにおいて農奴制が廃止された。
- 1768年、エカテリーナ大帝治下のロシア帝国が、オスマン・トルコと戦いを交えた。多くのルーマニア人が義勇兵としてロシア軍に参加し、トルコ軍と戦った。ロシア軍はワラキアを占領した。
- 1774年、キュチュク・カイナルジ条約成立。ロシア軍によって占領されていたワラキアが、オスマン・トルコに返還された。
- 1785年、トランシルヴァニアにおいて農奴制が廃止された。
- 1791年、エカテリーナ大帝支配下のロシア帝国の支援を受けたワラキアの貴族達がオスマン・トルコに対して反乱を起こしたが失敗。これ以後、ワラキア公国・モルドヴァ公国の支配をめぐり、ロシアとオスマン・トルコとの間の争いが続いた。
同じ年、トランシルヴァニアにおけるルーマニア人の権利を求める訴願が、ハプスブルク家の皇帝レオポルト2世に提出された。しかし、ルーマニア人の願いは認められるところとはならなかった。
- 1806年、ワラキア公コンスタンティン・イプシランティがダキア王国を建てることを計画。しかし、オスマン・トルコはコンスタンティン・イプシランティを解任。
反発したロシア帝国はオスマン・トルコに対して戦いを仕掛けた。ルーマニア人は義勇兵としてロシア軍に参加した。しかし、ルーマニアの独立はかなえられなかった。
- 1812年、ロシアとトルコとの間の条約により、ワラキア公国・モルドヴァ公国がオスマン・トルコに帰属することが確認された。同時にモルドヴァの一部がロシア帝国に割譲され、ロシア帝国のベッサラビア州となり、現代に至るまでロシアとルーマニア間の領土問題となっている。
- 1821年、ワラキアの有力者トゥドール・ヴラディミレスクが反乱を起こしたが失敗。しかし、以後のワラキア公国・モルドヴァ公国の公にはルーマニア人が任命されることとなった。
- 1822年、ギリシャはオスマン・トルコからの独立を宣言した。
- 1828年、バルカン半島に勢力を拡大することを目指すロシア帝国がルーマニアに侵入し、オスマン・トルコと戦いを交えた。
- 1829年、アドリアノープル条約により、ロシア軍によるワラキア・モルドヴァの占領が認められた。但し、名目的にはワラキア・モルドヴァはオスマン・トルコの領土とされた。
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