東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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ワラキア公国とルーマニアの歴史
12. ルーマニア王国の成立
- 1830年、ロンドン条約により、クレタ島を除くギリシャの独立が確認され、またワラキアとモルドヴァの自治が承認された。
- 1848年、フランス2月革命によって刺激を受けたワラキアの人々が反乱を起こしたが、トルコ軍とロシア軍によって鎮圧された。
同じ年、ハンガリー人がハプスブルク家に対して自治を要求した。
他方、ハンガリー人たちはトランシルヴァニア地方のルーマニア人に対しては抑圧的な政策を採り、トランシルヴァニアにおいてハンガリー人とルーマニア人との間の対立が激化した。
しかし、ハプスブルク家のオーストリア軍と介入してきたロシア帝国軍により、ハンガリー人の自立化の動きは抑えられた。
- 1853年、ロシア軍がルーマニアに侵入し、クリミア戦争が始まった。
- 1854年、イギリス・フランスとオスマン・トルコの間に同盟条約が成立した。
- 1855年、クリミアにおいてイギリス・フランス連合軍とロシア軍が戦火を交えた。
- 1856年、パリ条約によりクリミア戦争が終結した。
- 1857年、ルーマニアにおいて石油開発が始まった。
ルーマニアにおける石油生産
右上の画像は、現在のルーマニアの田園地帯で見た石油を輸送するためのパイプ・ライン。現在でもルーマニアで石油が生産されているが、その生産量は相当に落ち込んでいるらしい。
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- 1859年、ワラキアとモルドヴァは、モルドヴァ貴族の軍人アレクサンドル・ヨアン・クーザを両公国の公に選出した。
- 1861年、ハプスブルク家支配下のトランシルヴァニアの街シビウに集まったルーマニア人が、ルーマニア人の民族としての権利を求めた。
- 1862年、ワラキア(ヴァラキア)とモルドヴァが統一され、近代ルーマニアが誕生した。ブカレストが首都となった。
- 1864年、ブカレスト大学が創設された。
- 1865年、ルーマニア教会がコンスタンティノープルの総主教から独立した。
- 1866年、軍によるクーデターの為にアレクサンドル・ヨアン・クーザは退位。国民投票により、ドイツ貴族のカールがルーマニア公カロル1世として即位した。
ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家出身のカロル1世は、プロシア王ヴィルヘルム1世(後のドイツ皇帝)ともフランス皇帝ナポレオン3世とも親戚関係にあり、国際的な支持を得やすい立場にあった。
- 1867年、ハプスブルク家の下にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立。ハプスブルク家の皇帝がハンガリー王を兼ね、トランシルヴァニアはハンガリー王国の領土となった。
当時のハンガリー王国には、トランシルヴァニア地方を中心として、300万人以上のルーマニア人が住んでいた。
- 1871年、ジョセフ・シェリダン・レ・ファニュによる小説 「カーミラ」が発表された。主役の女吸血鬼カーミラ(ミラルカ・フォン・カルンスタイン伯爵夫人)のモデルは、17世紀初頭のトランシルヴァニアで数々の残虐行為を働いた伯爵夫人エルジェベト・バトリーだと言われている。
- 1877年、皇帝アレクサンドル2世治下のロシアが落日のオスマン・トルコに宣戦を布告。既に独立宣言を発していたルーマニアはロシア軍の領内通過を認め、ロシア軍はブルガリアへ進出。
ルーマニア公カロル1世自身も軍を指揮して、オスマン・トルコとの戦いに参加した。
- 1878年、サン・ステファノ条約により休戦が成立。ルーマニアの独立が公式に認められた。
他方、ルーマニアの南には、オスマン・トルコの主権下にありながらも自治を認められたブルガリア公国(首都はソフィア)が成立した。
- 1881年、ルーマニア議会の議決により、ルーマニア王国が成立。初代国王はカロル1世。
他方、オーストリア・ハンガリー二重帝国の一部をなすハンガリー王国内のトランシルヴァニアでは、シビウ会議が開催され、ルーマニア民族党が結成された。彼らはトランシルヴァニアの自治を要求した。
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