東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)


24. ルーマニアの石油生産

トランシルヴァニアからカルパチア山脈に入り、ドラキュラゆかりのブラン城森の中のペレシュ城を見て、ワラキアの平地に出た。そこで見たのが、一面に咲きほこる菜の花(下の画像)。ワラキアは春だねえ。

菜の花畑(ルーマニア)

ルーマニアの石油生産

ところが、そんなのどかな春の風景の中に、ちらほらと異質なものが目立っている。

パイプライン(ルーマニア) 例えば、右の画像にある原油輸送のためのパイプライン。実はルーマニアは1857年以来の産油国なんだ。(余談ながら、旧ソ連のアゼルバイジャンで石油生産が始まったのが1847年。)

生産量は減ってしまったけど、今でもこの国では石油が生産されている。

パイプラインの行き着く先は、巨大な石油精製設備。例えば下の画像は、クルテア・デ・アルジェシュの南にあるピテシュの街の石油精製設備だ。(旅の初日に撮影した画像。)

ピテシュの石油精製設備(ルーマニア)




石油精製設備と独裁者チャウシェスクの蹉跌
(ルーマニア)

1965年に共産党の党首となり、1967年に大統領となったルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクは、従来とは異なる政治を展開しようとした。

例えば、権力を確立した直後には、旧ソ連軍が東欧から撤退することを要求した。そんな要求は、当然ながら冷戦時代の西側諸国には評価されるよね。チャウシェスク政権は、アメリカや西欧諸国と友好関係を深め、西側から巨額の資金供与を受けることが出来たんだ。

巨額の資金を手にしたチャウシェスクは、その資金の一部を使って、巨大な石油精製設備を建設した。既に生産量が減少している国内の油田ではなく、中東から原油を輸入し、国内の設備で精製して輸出することを考えたわけだ。

しかし、そこで起こったのが二度にわたる石油危機。原油価格は高騰し、ルーマニアの石油精製設備は大赤字に陥った。それに加えて、その他の投資も失敗に終わったんだ。

そこでチャウシェスクは、西側からの借り入れを返済する資金を確保するために、輸入を制限し一般市民の生活を抑制した。しかも、国内からの反対の声を抑えるために、更に独裁的な政策を採ったわけだ。

ソ連においてゴルバチョフ大統領の自由化が進み、ドイツにおいてベルリンの壁が崩壊した直後の1989年12月、トランシルヴァニアの街ティミショアラでチャウシェスクの政策に反対する人々が虐殺された。

しかし、反チャウシェスクの炎はルーマニア各地に飛び火し、やがてチャウシェスク大統領は捕らえられ、その夫人と共に処刑されたんだ。ルーマニアで見る旧式の石油精製設備は、実はチャウシェスクの躓きの石なのかもしれないね。

【参考】都市別ツアー


【参考】ホテル検索


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