東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のルーマニア
東欧(1998年5月)
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1998年5月24日(日曜日)
02. マノレ修道院
(クルテア・デ・アルジェシュ、ルーマニア)
旅の二日目の朝は6時半に起床。寒い !! このクルテア・エ・アルジェシュの街は、カルパチアの山の麓にあるから、無理もないかな。
まずは風呂に入って身支度...をしたかったんだけど、風呂の蛇口をひねってもお湯が出ない。水より少し暖かい程度だ。部屋にあるラジエーターに触ってみても、ちっとも熱くない。ボイラーの容量が足りないのかな。ともかく、風呂はあきらめた。シャワーも無理。顔だけ洗おう。
これはオムレツか、薄焼きタマゴか...
7時には朝食を食べるためにホテルのレストランへ向かう。真っ暗だけど、食事のしたくは出来ているらしい。テーブルの上には、乾いてカサカサになったパン...。
レストランの従業員らしい女性が出てきた。ティーかコーヒーか、料理はオムレツでよいかと尋ねてきた。うん、じゃあコーヒーとオムレツをもらおう。
やがて登場して来たタマゴ料理。これは...。オムレツか薄焼きタマゴか、極めて微妙な料理だ。どちらかといえば、薄焼きタマゴに近いような気もするが...。
しかも、タマゴの他には何もなし。サラダも無い。でも、ルーマニアの人々にとっては十分な食事なんだろう。あまりゼイタクを言っちゃイカンな。
ワラキア公国の古都クルテア・デ・アルジェシュ (ルーマニア)
いかん、いかん。どうも食べ物の話ばかりになってしまう。これじゃあ、人間としての品性が疑われるね。
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(誰も疑わへんで。このサイトの中のページの半分は食べ物と飲み物やんか。)
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私達が滞在したクルテア・デ・アルジェシュの街は、カルパチア山系の南側にある。海抜は420メートルというから、朝晩は冷え込むはずだね。
ただの田舎町にも見えるこの場所が、実は中世ワラキア公国の首都だった時代もあるんだ。中世ワラキア公国が建国されたのは、西暦1290年のこと。但し、当時のワラキア公国はハンガリーに従属していた。
しかし、1330年にはワラキア公バサラブ1世がハンガリー王国軍を打ち破り、ワラキア公国は自立を果たした。このクルテア・デ・アルジェシュにワラキア公国の首都を置いたのも、その中世ワラキアの英雄バサラブ1世だった。
ちなみに、バサラブ1世の孫のワラキア公が、オスマン・トルコと戦ったミルチャ老公。そのまた孫のワラキア公が、ドラキュラのモデルとなったヴラッド・ツェペシュ(串刺し公)なんだ。(串刺し公ゆかりの場所もこの旅行記の中に登場します。)
正々堂々たるヤミ両替屋
ワラキア公国の古都を見て回る前に、まずは両替をしなきゃ。財布の中にはイギリス・ポンドとアメリカ・ドルが入っているんだけど、ルーマニアの通貨レイが無いと細かな買い物に不便だものね。
ホテルのフロントの横には、正式の両替所がある。窓口で10ドル紙幣を出し、ルーマニア・レイへの両替を依頼した。
しかし、窓口の係りは、両替は出来ないという。何故だ ?? 彼の簡単明瞭。「お金が無いから...」。なるほど、それは極めてクリアーな答えだ。
じゃあ、どこか近くで両替が出来る場所は無いか ?? 私の問いに対する答えは、またもやクリアだった。私達のツアー・バスを運転しているビリーが両替してくれるらしい。
ホテルの前のバスの横でタバコをふかしている運転手のビリーに近づき、こっそりと10ドル紙幣を渡して両替を頼んだ。というのも、ルーマニアでは両替は制限されていて、公認の両替所以外でのヤミ両替は禁止されているんだ。
ところが、ビリーときたら、堂々と紙幣を広げながら、大きな声で数え始めた。おいおい、一応はヤミ取引だろう...。巨漢のビリーはそんな小さなことは気にしないらしい。
ビリーに渡した10ドル紙幣と交換に戻ってきたのは 82,000ルーマニア・レイ。ホテルで見た相場だと 85,000ルーマニア・レイだったから、3,000レイが彼の小遣いになったわけだ。といっても、日本円に換算すれば、40円くらいかな。
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