東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
サンクト・ペテルブルクの旅(ロシア) 1999年8月
21. ヴラディミール・ヴィソツキー
ヴィソツキーがロシア語で歌う詩の意味は全くわからない。しかし、その歌が伝えようとする何かの強烈なパワーに圧倒された私は、とにかくその歌手の名前を頭に叩き込み、レコード屋で彼のCDを捜した。 手がかり しかし、日本のレコード屋ではヴィソツキーを見つけ出すことが出来なかった。その代わりに買ったのが、同じロシアの歌手アレクサンドル・グラツキーだった。そして、そのCDが奇跡的にも私にヴィソツキーの手がかりを与えてくれたのだ。 グラツキーのCDの中に「ソング(亡き友を思うソング)」という曲が収録されていた。CDに付録の資料によれば、その曲の原題の意味は、「友を歌う唄 - ヴラディミール・ヴィソツキー」。私が捜していたヴィソツキーのことを歌った曲だ。 そのCDの付録には、少しだけだがヴィソツキーのことも書いてあった。1980年に死亡 ... 。 ロンドンにて 結局、日本でヴィソツキーのCDを見つけ出せないまま、1993年に私はロンドンに渡った。そして、ロンドンのレコード店に入るたびにヴィソツキーのCDを捜す。 だが、ロンドンでもCDを見つけ出すことは出来なかった。 サンクト・ペテルブルク そして今、私はヴィソツキーの母国ロシアにいる。既に主な観光名所も見て回ったことだし、残った時間は幻のCDを捜して歩くつもりだ。 ネフスキー通りでレコード屋(店舗で営業しているものも、道ばたに広げているものも)を見かけるたびに、私はヴィソツキーを捜した。しかし、見つからない。 ネフスキー通りにある大きなデパートの中も捜し歩いたが、見つからない。(モルドヴァとグルジアのワインを 3本買えたのは、望外の収穫だったが。) 地下道へ 半ば諦めかけていた私の眼にとまったのは、地下道の入口 ... 家内はビビっている。地上ならばともかく、地下道は怖いというのだ。家内の気持ちはわかる。が、私の直感は、地下に入れという。私は躊躇しつつも、直感に従って地下道に下りていった。 薄暗い地下道。しかし、地上よりもむしろ活気がある。革ジャンを着込んだ若者たちが歩いている。そして、地下道の一角に数人の若者がたくさんのCDを並べて売っているのを見つけた。 若者の一人をつかまえ、「英語を話せるか ??」と尋ねる。相手の返事を待つまでも無く、英語が通じないことが明らかだった。面倒くさくなった私は、ひたすら「ヴィソツキー。ヴラディミール・ヴィソツキー。」と繰り返した。 黒い革ジャンのお姉さんのCDショップ その若者は、私の手を取り、地下道の向こうの壁に連れて行く。黒の革ジャンのお姉さんが、通路でCDを売っていた。青年がお姉さんにロシア語で話し掛けた。お姉さんは、売り場(??)の一角を指差す。そこにヴィソツキーがあるらしい。 自分の売り場(要は通路なんだけどね)に戻っていく若者に「ありがとう」と声をかけ、お姉さんの指さす先のCDを見る。ロシア文字で書いてあるため、どれがヴィソツキーだかわかりゃしない。 ゆっくりとした英語でお姉さんに尋ねる。「どれがヴィソツキー ??」。お姉さんが指で示してくれた。助かった。多少は通じているらしい。しかし、お姉さんが指さすCDは多すぎる。全部ヴィソツキーなのか ?? |
ついにヴィソツキー どのCDにするのかと尋ねている様子のお姉さんに、「キミはどのCDが好き ??」と尋ね返す。彼女が 3枚のCDを取り出して渡してくれた。どうせロシア文字は読めない。その中から適当に2枚を選び出した。 長い年月をかけて、ようやく見つけ出したヴィソツキー。地下通路で買ったヴィソツキーのCD。私の宝物だ。もちろん、今もヴィソツキーを聞きながら、このページを書いている。
旧ソ連時代に反体制派の歌手・詩人・俳優として活動したヴラディミール・ヴィソツキーは既に亡くなっている。でも、旧ソ連が消滅した後のロシアで、彼は人々の支持を失っていないんだね。歴史の皮肉。
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