東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「バルセロナ街歩き (スペイン)」

カタルーニャの歴史とガウディ

07. バルセロナの海辺に立つコロン(コロンブス)記念塔

バルセロナに立つコロン(コロンブス)記念塔

レパントの海戦の司令官ドン・フアン・デ・アウストリアが乗ったガレー船の実物大復元模型などを見て、バルセロナの海洋博物館(旧国立造船所)を出る。

スペインのカタルーニャ地方の州都バルセロナに立つコロン(コロンブス)記念塔

すぐ目の前にそびえているのが、上の画像にあるコロン(コロンブス)記念塔なんだ。その塔の上、50メートルの高さからコロンブスがこちらを見下ろしている。

コロンブスとバルセロナ

このコロン(コロンブス)記念塔は西暦1886年に建てられたんだそうな。でも、新大陸アメリカを発見したコロンブスがバルセロナから出航したわけでもないのに、何故にここにコロンブスの記念塔があるのかな。

一般的にはコロンブスはイタリアのジェノヴァの出身とされることが多いよね。でも、このスペインのカタルーニャ地方では、彼はバルセロナの生まれだったとされている。15世紀のバルセロナにコロンという一族が住んでいたんだけど、そのアントニとマグダレナという夫婦の子供として生まれたのが、新大陸を発見したコロンブスだったというわけだ。コロンブスが使っていた紋章は、アントニとマグダレナの夫婦が通っていた教会の紋章と同じだったと。

スペインのカタルーニャ地方の州都バルセロナに立つコロン(コロンブス)記念塔

但し、コロンブスの航海に出資をしたのが、カスティーリャ女王イサベル1世だったこともあり、新大陸との貿易はスペイン南部アンダルシア地方古都セビリアの港の独占とされ、しかも新大陸貿易に携わることが出来るのはカスティーリャの人々のみとされ、バルセロナを含むアラゴン・カタルーニャの人々は締め出されていたんだ。

そして16世紀、新大陸の冨がハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)フェリペ2世の時代のスペインに流れ込んでくる一方で、かつて中世においては地中海を舞台に繁栄していたバルセロナは衰退を始めていたわけだ。

バルセロナのレストランで海の幸

そんなコロンブスの記念塔を見上げながら、海辺の道を歩く。やがて到着したのは創業1836年という老舗のレストラン「シエテ・ポルテス」。その店のカードが下の画像なんだ。

スペインのカタルーニャ地方の州都バルセロナの海辺のレストラン「シエテ・ポルテス」

まずは前菜は新鮮な魚介類の取り合わせ。ゆでただけの貝だのエビだのが、氷のたっぷり乗った器に盛られて登場。続いてメインは魚介類のパエリャ。どちらも地元産の白ワインにぴったりだった。

ついでながら、私はスペイン料理が好きなんだけど、特にパエリャは大好き。しかもフラメンコも好き。というわけで、ロンドンではフラメンコを見にスペイン料理の店によく行くんだけど、そこでは必ずパエリャを食べていたんだ。但し、バルセロナを中心とするカタルーニャ地方の人々は必ずしもフラメンコを好きではないらしいけどね。

ちなみに、パエリャ(あるいはパエジャ)は西暦711年にスペインを征服したイスラム教徒がもたらしたもの。彼らがスペインに灌漑技術をもたらし、米をもたらし、パエリャに欠かせないサフランをもたらしたわけだ。

そんなイスラム教徒はレコンキスタ(国土回復運動)の終了後にカトリックに改宗を強制されてモリスコになったんだけど、結局17世紀初頭にモリスコはスペインから追放されている。それでもパエリャはスペイン料理を代表するものとして残っているんだよね。

バルセロナのレイ広場(王の広場)と大王宮

レストランで海の幸と白ワインを堪能し、いささか酔っ払って店を出た。そのまま歩いてゴシック地区へと向かう。このゴシック地区はバルセロナの中でもあまり治安が良い方とは言えないから、酔っ払って歩くのは危ないんだけどね。アルコールの勢いで行っちゃったわけだね。

やがて到着したのはレイ広場(王の広場)。下の画像がその様子なんだけど、奥に見える階段の上に見えるのが、大王宮の入り口だったらしい。かつてこの王宮にはアラゴン・カタルーニャ連合王国の王が住んでいたんだそうな。最初の航海を終えたコロンブスがカトリック両王(カスティーリャ女王イサベル1世アラゴン王フェルナンド2世)に報告の為に謁見したのも、この王宮だったとか。

スペインのカタルーニャ地方の州都バルセロナのレイ広場(王の広場)と大王宮の入り口

但し、さほど治安のよろしくないゴシック地区の中でも、このレイ広場(王の広場)界隈は特によろしくない場所なんだそうな。上の画像を見ても、人影は少なくて、たむろしているのは若いカップルが2組ほど。確かに不気味な空気が漂っているかも。

というわけで、危ない目にあう前にレイ広場を退散しようと歩き始めた。でも、私たちの後ろから数人の若者たちが歩いてきた。後をつけられているのかな。そのうちに彼らの姿が消えたから、真相はわからないんだけど、ちょいと怖かったね。

余談ながら、ランブラス通りの西南のあたりには、かつて夜の蝶の皆様が多かったらしい。昔は「バリ・チーノ」、直訳すれば「中国地区」と呼ばれていたんだそうな。雰囲気が昔の香港の九竜に似ていたということで、そう呼ばれたそうな。但し、住民の多くはスペイン南部からの貧しい移民であり、フラメンコのバーがあったりして、夜遊びをするには面白い場所なんだそうな。私たちにはそんな勇気は無かったんだけどね。


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