東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
バルセロナで冬の休暇
(スペイン 1995年12月)
カタルーニャとバルセロナ(スペイン)の略年表
05. 統一スペイン支配下のカタルーニャ
- 1516年、カスティリア女王イザベル1世とアラゴン・カタルーニャ王フェルナンド2世の孫、ハプスブルグ家のカルロス(カール)1世が即位。ここにカスティリアとアラゴン・カタルーニャの同君連合が成立した。
- 1519年、スペインの王カルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝カール5世として即位した。
- 1640年、30年戦争における戦費の増大に苦しむ中央政府の暴政に対し、カタルーニャの人々が反乱(「収穫人戦争」)を起こした。カタルーニャ副王サンタ・クロマは反乱に加わった人々によって、バルセロナで殺害された。
カタルーニャの依頼によって介入したフランス王ルイ13世は、バルセロナ伯・王の称号さえも与えられた。
やがて反乱は終息した。他方、マドリッド政府がカタルーニャの反乱にてこずっている間に、1581年からスペインのハプスブルグ家の支配を受けていたポルトガルが独立を回復していた。
- 1701年から1714年、スペイン継承戦争。スペインの王位継承権をめぐり、フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルグ家が戦いを繰り広げた。
カタルーニャは、この戦争において、オーストリアのハプスブルグ家を支持した。
- 1714年9月11日、オーストリアのハプスブルグ家からも他の同盟国からも見捨てられたバルセロナが、フランス軍の攻撃によって占領された。
新しく成立したブルボン朝スペイン王国の中央政府は、ハプスブルグ家についたカタルーニャに対して、厳しい政策を採った。州政府や市議会が廃止され、中央政府の法律が押し付けられ、更にカスティリア語の使用までも強制された。
- 1715年、バルセロナの人口は 37千人だった。
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