東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

バルセロナで冬の休暇
(スペイン 1995年12月)


カタルーニャとバルセロナ(スペイン)の略年表
06. カタルーニャの再生

  • 1778年、ブルボン家のスペイン王カルロス3世によって、新大陸との交易権が、カタルーニャの商人にも開放された。

    その結果、衰退を続けていたカタルーニャの繊維産業が立ち直り、産業革命に至ることとなった。

  • 1786年、バルセロナの人口が 95千人に達した。

  • 1808-1813年、フランス皇帝ナポレオンの軍がバルセロナを支配した。

  • 19世紀前半、復古的な芸術運動「ラナシェンサ(カタルーニャ・ルネサンス)」が活発化した。

    その頃、カタルーニャ語も文学において復権を遂げつつあった。

  • 1835年、マドリッドの中央政府により、修道院の廃止と財産の没収が命じられた。その結果、バルセロナの修道院も略奪され、修道院が集まっていた現在のランブラス通り周辺も荒廃してしまった。

    同じ年、バルセロナの繊維工場に導入された蒸気機関を、暴徒が破壊。スペイン唯一の蒸気機関を動力とする工場が閉鎖に追い込まれた。

  • 1850年、バルセロナの人口が 190千人に達した。

  • 19世紀半ば、繊維産業が発達しつつあったカタルーニャでは、労働者が組織化されつつった。

  • 1855年、カタルーニャにおいてゼネストが行われた。

  • 1859年、バルセロナを取り囲む城壁が撤去された。

  • 1868年、スペインにおいて第一インターナショナル(国際労働者同盟)の支部が設立され、カタルーニャとアンダルシアがその中心地となった。

  • 1873年、スペイン第一共和制が成立し、カタルーニャ人ピ・イ・マラガルがスペイン大統領に選出された。しかし、スペインの統一を維持することが出来ず、彼は辞任。1875年には、王政復古がなされた。

  • 1878年、建築学校を卒業したガウディは、皮手袋の店の注文に応じて、手袋のショー・ケースを作った。高さ2mほどのショー・ケースはパリ万博に出品され、バルセロナの富豪グエル氏の目に留まった。

    その2年後、グエル氏とガウディが交友関係を持ち、やがてグエル邸やグエル公園を残すことになる。

  • 1879年、バルセロナで最初のカタルーニャ語日刊紙が創刊された。

  • 1887年、バルセロナの人口は 270千人に達した。

  • 1881年、ガウディがバルセロナのシンボル 聖家族教会の建設の担当者となった。

    同じ年、バルセロナにおいて、アナーキズム色の強い労働者組織「連合」が結成された。

  • 1888年、バルセロナで万国博覧会が開催された。

  • 1891年、バルセロナの人口が 510万人となった。

  • 1892年、「マンレサの規範」において、カタルーニャの自治が要求された。

  • 1893年、オペラ劇場においてロッシーニの「ウィリアム・テル」が上演されている最中に爆弾が投げ込まれ、数十名の死傷者が出た。

    この時期のバルセロナでは、無政府主義者によるテロが多発していた。

  • 1898年、米西戦争においてスペインは大敗を喫し、殆どの植民地を失うこととなった。

    他方、スペインの衰退とは対照的に、産業革命に成功したカタルーニャは繁栄を謳歌し始めた。

    経済的な繁栄は、ムダルニズマ(近代主義)と呼ばれる新しい芸術運動に力を与えた。その代表的な芸術家が、バトリョ邸・ミラ邸聖家族教会グエル公園などを設計したアントニオ・ガウディだった。

    ピカソが通った「4 ガッツ(四匹の猫)」(バルセロナ、スペイン) 当時のカタルーニャの新しい芸術運動の空気を呼吸していた若い芸術家の中には、バルセロナ市内の店「 4 ガッツ (四匹の猫)」(右の画像)に通っていたピカソもいた。

  • 1900年1月1日、ゴシック地区にある店「 4 ガッツ(クワトロ・ガッツ、あるいは四匹の猫)(上の画像)」で、ピカソの初めての個展が開かれた。

    同じ1900年、ガウディの手によるグエル公園(当初は分譲住宅地)の造成が始まった。

    その年、セファラディーダ(1492年にスペインから追放されたユダヤ人の子孫たち)の帰還運動が始まった。

    20世紀前半には、ドイツを中心とするヨーロッパ各国から、セファラディーダがスペインに帰還している。バルセロナにも数千人のセファラディーダが住み、市営屠殺場の一角にはユダヤ教徒のための特別の場所もあるらしい。

  • ガウディが改装を担当したバトリョ邸(バルセロナ、スペイン) 1904年、ガウディがバトリョ邸の改装に着手した。

  • 1906年、ガウディがミラ邸の建設に着手した。

    「カタルーニャの連帯」運動が、選挙において候補者を立て、多くの議席を獲得した。

  • 1909年、バルセロナにおいて「悲劇の一週間」事件が起こった。モロッコ派兵のための予備役の召集に反対して起こったゼネストをきっかけに大規模な騒乱が起こり、多くの死者が出た。

    モロッコに派遣された4万人のスペイン軍部隊の多くがカタルーニャ人であったことが、カタルーニャの人々の反感を買ったわけだ。

  • 1914年、第一次世界大戦勃発。スペインは中立を貫いた。

  • 1917年、バルセロナにおいて80人の野党議員が憲法制定議会の召集を要求した。しかし、彼らの集会は非合法であり、当局によって解散を命じられた。

【参考】都市別ツアー


【参考】ホテル検索





次のページ

前のページ
「バルセロナで冬の休暇(スペイン)」の旅程表に戻る
旅行記「春のスペイン」(トレド、マドリッド、セゴビア)へ行く
旅行記「春のポルトガル」(シントラ、リスボン、オビドス、ナザレ)へ行く
「ヨーロッパ・ミソラン・ガイド」へ行く
このサイトのトップ・ページへ行く

関連書籍

参考になる・・・かもしれない本を探してみました。(本の題名をクリックすれば詳細が表示されます。)




姉妹サイト 「イタリア三昧+マルタ」



イタリアとマルタに興味のある方は、姉妹サイト「イタリア三昧+マルタ」をチェックしてみてくださいね。ローマフィレンツェナポリピサアマルフィなどイタリア各地、マルタ島とゴゾ島の入門編聖ヨハネ騎士団にゆかりのマルタを尋ねた旅行記を集めました。


姉妹サイト 「ヨーロッパの歴史風景」



ヨーロッパに興味のある方は、この「ヨーロッパ三昧」の姉妹サイトである「ヨーロッパの歴史風景」(先史・古代編中世編近世編近代・現代編)にも行ってみてくださいね。


Copyright (c) 2002 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。