東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
バルセロナで冬の休暇
(スペイン 1995年12月)
カタルーニャとバルセロナ(スペイン)の略年表
07. 自治のための戦い
- 1923年、産業の発展と共に深刻化した階級対立や治安の悪化などに対処することを期待され、プリモ・デ・リベラ将軍の軍事独裁政権が成立した。
プリモ・デ・リベラ独裁政権は、カタルーニャ語の公的な使用やカタルーニャの民俗芸能さえも禁止した。
- 1925年、スペインに帰還するセファラディーダのための市民権法が制定された。
- 1926年、バルセロナのシンボル 聖家族教会の建設を続けていたガウディが、交差点を横断している時に路面電車にはねられ死去。
聖家族教会 あるいは サグラダ・ファミリア
(バルセロナ、スペイン)
右上の画像は、聖家族教会(サグラダ・ファミリア)の塔の上で撮影したもの。
ガウディが命をかけた聖家族教会の建設工事は今も続き、完成するのは100年後あるいは200年後と言われている。
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- 1929年、世界恐慌の影響を受け、プリモ・デ・リベラ独裁政権が崩壊した。
- 1930年、バルセロナの人口が 100万人を突破した。
- 1931年、スペイン第二共和制が成立した。
カタルーニャにでは自治政府が成立し、カタルーニャの文化・経済の反映が回復するかに見えた。
- 1934年、カタルーニャ自治政府の首相が、スペイン連邦内での独立カタルーニャを宣言した。
- 1936年、占拠における左派の勝利に対し、フランコ将軍たちを指導者とする反乱が勃発し、スペイン全土に内戦が広がった。
戦火の影響により、聖家族教会(サグラダ・ファミリア)の建設工事も中断された。また、ガウディが残した設計図を焼失してしまった。
当初は不利な状況にあった反乱軍は、ドイツ・イタリアなどのファシスト勢力からの「義勇軍」や「技術援助」を受け、次第に勢力を拡大していった。
- 1937年、フランコ独裁政権側に立っていたドイツ・イタリアなどの「義勇軍」の爆撃機が、スペイン北部の街ゲルニカを空爆し、多くの人々が犠牲になった。
その惨劇を知ったピカソは、あの大作「ゲルニカ」を描いた。
- 1939年1月26日、共和国政府側に立っていたバルセロナが陥落した。約40万人の人々がフランスに逃れた。
同年、フランコ将軍を中心とする勢力が全土を制圧し、スペイン内戦が終息。共和国政府を支持していたカタルーニャは厳しい弾圧を受け、カタルーニャ語での出版も禁止された。
同年、第二次世界大戦が勃発。フランコ統治下のスペインは、ドイツやイタリアと近い関係にあったが、大戦には参加しなかった。
- 1952年、バルセロナのシンボルでもある聖家族教会(サグラダ・ファミリア)の建設工事が再開された。1936年のスペイン内戦勃発以来、工事は中断されたままになっていた。
1963年、ピカソが少年時代を過ごしたバルセロナ(スペイン)にピカソ美術館(右の画像)がオープンした。
このピカソ美術館では、ピカソの少年時代・無名時代の作品や、ピカソ自身が寄贈した作品が展示されている。
- 1975年、独裁者フランコ死去。ファン・カルロス1世がスペイン国王に即位。他方、スペインで民主化が進み始めた。
- 1976年、新しく制定されたスペイン憲法では、カタルーニャなどの自治州において、独自の言語を自治州の公用語とすることが認められた。
- 1979年、カタルーニャ自治州の成立が国民投票によって確認された。
- 1981年、ピカソの大作「ゲルニカ」がスペインに返還された。
スペイン内戦時代の惨劇を描いたこの大作は、スペインに民衆のための共和国が成立するまでという条件で、ピカソ自身の手によってニューヨークの近代美術館に寄託されていた。
- 1992年、バルセロナ・オリンピックが開催された。その会場では、英語・フランス語と並んでカタルーニャ語での案内板だけが設けられ、スペイン語(カスティリア語)の案内板は無かったらしい。
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