東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のスペイン」

トレド、マドリッド、セゴビアを周り、歴史とバルと闘牛を楽しんだ

14. セゴビアの大聖堂とその周辺

セゴビアの道標には水道橋

さて、細い坂道を登り、セゴビアの古い街並みを歩く。道の脇の建物の壁には、通りの名前を示す道標があるんだけど、その道標(下の画像)の左上にはセゴビアの水道橋が描かれているんだ。水道橋はセゴビアのシンボルなんだね。

スペインの街セゴビアのフアン・ブラヴォ通りの道標

ところで、上の画像はフアン・ブラヴォ通りの道標なんだけど、このフアン・ブラヴォというのは昔のセゴビアの英雄なんだそうな。

セゴビアの街の広場に立つフアン・ブラヴォ像

英雄というからには、銅像の一つや二つはあるよね。下の画像はセゴビアの聖マルティン広場に立つフアン・ブラヴォ像。このフアン・ブラヴォさんは何をした人物なのか。彼は昔のスペインの反乱の指導者だった。ちょいと長くなるけど、画像の下にフアン・ブラヴォについて書いておくね。

スペインの街セゴビアの聖マルティン広場に立つフアン・ブラヴォ像

西暦1500年、ネーデルラント南部(今のベルギー)で男の子が生まれた。その父方の祖父は神聖ローマ帝国の皇帝、祖母はブルゴーニュ公シャルル突進公の一人娘。母方の祖父はアラゴン王フェルナンド2世、祖母はカスティーリャ女王イサベル1世

西暦1506年、男の子が6歳の年に父が亡くなり、少年はブルゴーニュ公となった。西暦1516年に母方の祖父フェルナンド2世が亡くなり、少年はスペイン王カルロス1世となった。その翌年にはブリュッセルを出てスペインにやって来たんだ。

西暦1519年には父方の祖父である皇帝マクシミリアン1世が亡くなり、スペイン王カルロス1世はオーストリアを含むハプスブルク家の所領を相続した。更には、その年に行われた皇帝選挙においてフランス王フランソワ1世を破り、皇帝となった。ここにハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝(スペイン王カルロス1世)が誕生したわけだ。

ところが、その翌年の西暦1520年には足許のスペインでコムネロスの反乱が起こった。増税がきっかけだったらしい。でも、そもそもは王がベルギーから連れてきたスペイン語も話せない連中がスペインで重臣となり、スペインで取り立てられた税金や財宝が外国で使われることに対する不満が積み重なっての反乱だった。

そんな反乱軍の指導者の一人がフアン・ブラヴォだった。当初はマドリッドやトレドを含む多くの街の参加を得て、反乱軍が優勢だった。でも、次第に王の軍が巻き返し、西暦1521年の対決では反乱軍が大敗を喫した。反乱の指導者の一人だったフアン・ブラヴォはその際に捕えられ、翌日には処刑されたんだそうな。

セゴビア大聖堂

ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世(皇帝カール5世)に対するコムネロスの反乱においては、このセゴビアの街でも戦いがあった。その戦いによって、西暦1520年にはセゴビアの大聖堂が破壊されてしまった。

新しいセゴビア大聖堂の建設が始まったのは西暦1525年のことだった。そして西暦1768年、完成したセゴビア大聖堂が聖別された。

スペインの街セゴビアの大聖堂

上の画像が今のセゴビア大聖堂の様子なんだけど、スペインで建設された最後のゴシック様式の大聖堂なんだそうな。その気品あふれる姿から、「貴婦人」とも称されるらしいよ。

チューロをかじりながら眺めたセゴビアの風景

そんなこんなでセゴビアの街の坂道を登ってちょいと疲れたね。見晴らしの良いカフェで腰を下ろして、ちょいと休憩しよう。チューロをかじりながら、カフェ・コン・レチェを飲んでひと休み。チューロはスペイン独特の揚げドーナツ、カフェ・コン・レチェはカフェ・オ・レだね。

スペインの街セゴビアの風景

上の画像はそのカフェのテーブルからの眺めなんだけど、画像中央に塔が見えているのは聖マルティン教会。その教会の前にある聖マルティン広場に、さっき見たフアン・ブラヴォの像が立っていたというわけだ。


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