東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
春のブルガリア
東欧(1997年5月)
ブルガリアの歴史
05. 第一次ブルガリア帝国の滅亡
- 930年、ブルガリア帝国の支配者ペタルの兄ミハイルが反乱を起こした。反乱は鎮圧されたが、ブルガリア帝国の勢力は弱体化し始めた。
- 943年、ハンガリーに拠点を置いていたマジャール族がブルガリアに侵入。マジャール族は更にビザンチン帝国にまで侵入した。
同じ年、イーゴリ公支配下のキエフ・ロシアがコンスタンティノープルに遠征。キエフ・ロシアと同盟していたペチェネグ族が、ブルガリア領内を略奪した。
- 945年、コンスタンティノープル大主教がブルガリア教会の独立的な地位を承認した。
- 10c半、ブルガリアにおいて異端のボゴミール派が広まった。ボゴミールはブルガリアからセルビアやボスニアに広まっていった。
他方、この頃のブルガリアでは、多くの修道院が建てられ、たくさんの修道士が信仰の暮らしを送っていた。バルカンの山中にあるリラの僧院(修道院)もその一つである。そのリラの僧院の中庭から見る風景が下の画像。
- 965年、ブルガリア帝国とマジャール族との間に条約が成立した。その条約によれば、マジャール族がビザンチン帝国に侵攻する際には、ブルガリア帝国領内を通過することが認められていた。
- 966年、スヴァトスラフ公指揮下のキエフ・ロシア軍がブルガリアに侵攻し、ドナウ川河口付近を支配下に置いた。
- 969年、ビザンチン帝国からの支援を得ることが出来なかったブルガリア帝国のボリス2世は、キエフ・ロシアと同盟を結んだ。
- 970年、キエフ・ロシアのスヴャトスラフ公は、ペチェネグ軍・ブルガリア軍・マジャール軍と共にビザンチン帝国に侵攻したが敗北。
- 971年、反撃に出たビザンチン帝国軍がブルガリア帝国領内に侵攻し、ブルガリア軍は降伏。キエフ・ロシア軍はビザンチン軍と講和の上で撤退した。
敗北の結果、ブルガリア帝国の東部はビザンチン帝国領となった。また、ブルガリア帝国の皇室は、ビザンチン帝国の捕虜となった。
- 976年、ブルガリア西部の貴族たちを指導者として、ブルガリアがビザンチン帝国への侵入を再開した。
- 996年、反撃に出たビザンチン帝国軍がブルガリア軍を撃破。しかし、ビザンチン帝国はイスラム教徒との戦いを続けており、ブルガリアとの講和を成立させた。
- 1001年、イスラム教徒との戦いを終息させたビザンチン帝国の皇帝バシレイオス2世は、ブルガリアに対する大規模な侵攻を始めた。
- 1014年、ビザンチン帝国の皇帝バシレイオス2世(別名「ブルガリア人殺し」)によって、ブルガリア帝国軍が殲滅された。
- 1018年、ビザンチン帝国のバシレイオス2世が第一次ブルガリア帝国の全ての領土を征服し、第一次ブルガリア帝国が消滅した。
多くのブルガリア貴族がビザンチン帝国に降伏したが、一部の抗戦派はアルバニア領内に逃れて戦いを続けた。しかし、抗戦派の勢力は次第に衰え、やがてブルガリア全土がビザンチン帝国の軍管区に再編された。
ブルガリア教会の長は「総主教」の地位を失い、大主教に格下げされた。
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