東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「初秋のブルゴーニュ」 (フランス)

ディジョン、ジュヴレ・シャンベルタン、ボーヌ、ペルージュ、リヨン

h1. ブルゴーニュ 略年表

BC 600 今のフランス南部プロヴァンス地方マルセイユに古代ギリシャ人が定住。川を遡って交易を行い、ワインなどを今のフランス内陸部にもたらした。
BC 122 古代ローマ帝国がエクサン・プロヴァンス(エクス)を建設。次第に勢力を拡大。その後、ガリアを支配したローマ人は、ワイン生産を発展させた。
AD 91 古代ローマ帝国のドミティアヌス帝がフランスのワイン用ブドウ栽培の半減を命じた。ローマを中心とするイタリアのワイン生産を保護する為だった。
AD 3 - 4c ゲルマン諸族の侵入により、フランスにおけるブドウ栽培が衰退した。
AD 5c フランスにおけるブドウ畑が再建された。
AD 463 ブルグント王国(後のブルゴーニュ)でゴンドバルド(ゴンドボー)王が即位した。
AD 534 フランク王国に敗れ、ブルグンド王国が崩壊した。
AD 561 メロヴィング朝フランク王国の王クロタール 1 世の死去に伴ない、フランク王国が分割された。クロタール 1 世の得たアウストラシア王国は、ブルゴーニュを含み、更にアルルから北東フランスに及んでいた。
AD 581 当時のアウストラシア王ゴントランが、ディジョンのブドウ畑をサン・ベニーニュ修道院(後の大聖堂)に与えた。その後、多くの王・貴族たちがブドウ畑を教会・修道院に寄進する先途となった。
AD 8c初 シャルルマーニュ(カール大帝)の祖父カール・マルテルがアウストラシア王国を併合。やがてカール・マルテルはイベリア半島を征服したイスラム教徒をトゥール・ポワティエの戦いで打ち破っている。
AD 9c後 ブルゴーニュ東部 及び 南部に関しては、ドイツ系のルドルフ 1 世がブルゴーニュ王として支配。他方でフランス側のブルゴーニュは、ブルゴーニュ公領 及び ブルゴーニュ伯領(いわゆるフランシュ・コンテ)となった。
AD 1032 ブルゴーニュ王の領土(ブルゴーニュ東部・南部やリヨンなど)は、神聖ローマ皇帝コンラッド 2 世に帰属した。(これらの土地は、 13 世紀には「アルル王国」 と称された。)
AD 12c シトー派の修道士達が丘の中腹を開墾し、クロ・ド・ヴージョのブドウ畑を生み出した。
AD 1363 フランス王ジャン 2世が、息子であるフィリップ・ル・アルディ大胆公(豪胆公)に、フランス領ブルゴーニュ公領を与えた。(ヴァロワ家系ブルゴーニュ公国の始まり。)
AD 1369 ブルゴーニュ公フィリップル・アルディ大胆公が、ブルゴーニュ伯領(フランシュ・コンテ)の相続人であるマーガレットと結婚した。
AD 1378 神聖ローマ皇帝カール 4 世が、アルル王国をフランス皇太子(後のフランス王シャルル 6 世)に割譲。
AD 1384 ブルゴーニュ公夫人マーガレットの父の死により、フランシュ・コンテ、アルトワ、フランダースなどの領土がフィリップル・アルディ大胆公の支配下に入った。
AD 1395 フィリップル・アルディ大胆公がコート・ドールのブドウ畑にガメイ種のブドウを植えることを禁止した。
AD 1404 ジャン無畏公がブルゴーニュ公国を相続した。
AD 1407 ジャン無畏公の命により、対立していたオルレアン公ルイが暗殺された。
AD 1417 ブルゴーニュ公ジャン無畏公がイングランド王ヘンリー5世と秘密協定を結んだ。
AD 1419 ジャン無畏公が暗殺され、フィリップ善良公がブルゴーニュ公国を相続した。フィリップ善良公は、百年戦争においてイギリスと結び、オランダまで領地を拡大した。
AD 1420 トロワ条約によりイングランド王ヘンリー5世がフランス王位継承権を獲得した。
AD 1429 イギリスとの百年戦争で少女ジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放した。
AD 1430 ブルゴーニュ公フィリップ善良公がブラバント公国(今のベルギー首都ブリュッセルアントワープなどを含む)を相続した。
AD 1431 イギリスとの百年戦争でフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクがイングランドによって処刑された。
その年、後のナポリ王・プロヴァンス伯のルネ・ダンジューがディジョンのバールの塔に囚われの身となった。
AD 1435 ブルゴーニュ公フィリップ善良公とフランス王シャルル7世が和解した。
AD 1467 シャルル豪胆公がブルゴーニュ公国を相続。彼はフランス王ルイ 11 世と争った。
AD 1469 ブルゴーニュ公シャルル突進公がハプスブルク家からアルザスを買い取った
AD 1477 シャルル豪胆公が、ナンシーにおいてスイス軍と交戦中に戦死。フランス王は(狭義の)ブルゴーニュ公領とピカルディを得た。しかし、ヴァロア家系ブルゴーニュ公家の相続人マリーは、ハプスブルグ家のマクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン 1 世)と結婚し、残りの領地はハプスブルグ家に帰属することとなった。(後の皇帝カール5世はマリーの孫にあたる。)
AD 1636 フランス王ルイ 13 世は、スペイン系ハプスブルグ家の領有するフランシュ・コンテの併合を求めて軍を派遣した。
AD 1648 ウェストファリア条約において、フランシュ・コンテがハプスブルグ家に帰属することが確認された。
AD 1668 コンデ公の率いる軍によりフランシュ・コンテが占領され、フランシュ・コンテがフランスに帰属することとなった。
AD 17c 重いワインを好むオランダやドイツの顧客たちの為に、砂糖を加えてワインを醸造することが始められた。
AD 1800頃 フランス革命後の反聖職主義により、教会や修道院によって所有されていたブルゴーニュのブドウ畑が没収され、細切れにされて農夫たちに売却された。(その結果、ボルドーのようなシャトー銘柄はブルゴーニュには少ない。)


次のページは
「08. 花のある村 ジュヴレ・シャンベルタン」



ヨーロッパ三昧 トップ・ページ

ヨーロッパの歴史風景

このサイト「ヨーロッパ三昧」には、下の姉妹サイトもあります。ヨーロッパに興味のある方は寄り道してくださいね。

ヨーロッパの歴史風景 バナー このサイト「ヨーロッパ三昧」の姉妹サイト「ヨーロッパの歴史風景」。ヨーロッパ各国の歴史に重点を置いてある。



Copyright (c) 2000 - 2013 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。

このサイトの運営は、あちこち三昧株式会社が行います。