東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「アルザスとストラスブール (フランス)」

14. ストラスブールのロアン宮殿とグーテンベルク

ストラスブールのロアン宮殿

昨夜はストラスブールを代表するレストラン「ビュールイーゼル」で過去最高と言えそうなディナーを楽しんだ。今朝も起きてからの家内との話題は昨夜のディナーだったよ。でも、楽しい思い出ではお腹はふくれない。既にお腹は空いている。

とは言え、今朝は忙しい。今日の夕方にはロンドンに帰る予定になっているから(そろそろイギリスのパブで食べるイングリッシュ・ブレックファストも恋しいな ・・・ )、まずは荷造りをしなきゃね。でも、その前にホテルの部屋に風呂につかり、ジャグジーでのんびり。

フランス東部アルザス地方の中心都市ストラスブールのロアン宮殿の門

そんなわけで、ホテルのチェック・アウトを済ませ、荷物を預けて出発した時には10時を過ぎていた。ホテル前からのんびりと歩いてストラスブールの旧市街に入り、やがて到着したのがロアン宮殿(上の画像は宮殿の門)だった。

ロアン宮殿に見るストラスブール、アルザス、フランスの歴史

このロアン宮殿の中には美術館一つと博物館二つがある。その中に入れば歴史に関するあれこれも見ることができるだろうね。でも、このロアン宮殿(下の画像)自体がストラスブール、アルザス、そしてフランスの歴史の証人だったりするんだ。

フランス東部アルザス地方の中心都市ストラスブールのロアン宮殿

パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の造営で名高いフランス王ルイ14世太陽王がストラスブールを攻略したのが西暦1681年のこと。そしてパリの名門貴族出身のロアン枢機卿がストラスブールの司教となった。以後、このロアン家がストラスブールの司教の地位を世襲していくんだけど、このロアン宮殿はそのロアン家の司教が18世紀前半に建てたんだそうな。

その後、西暦1770年にはフランスの王子(後のフランス王ルイ16世)と結婚するオーストリアのハプスブルク家の王女マリー・アントワネットがパリに向かう途中でこのストラスブールのロアン宮殿に宿泊したらしい。

その際、マリー・アントワネットは未来のストラスブール司教となるルイ・ルネ・ド・ロアンにも会っているんだそうな。やがてそのルイ・ルネ・ド・ロアンが関与した「首飾り事件」が起こり、フランス国民の王妃に対する反感が強まり、やがてフランス革命の後のルイ16世に続くマリー・アントワネットの処刑に至る。

やがて革命の混乱の中で頭角を現したナポレオンがフランス皇帝となる。そのナポレオンも遠征の際にこのストラスブールのロアン宮殿に滞在したこともあるらしい。

ラ・マルセイエーズの作曲者ルージェ・ド・リール

ところで、このストラスブールのロアン宮殿の中で見ることの出来る絵(部分)が下の画像なんだ。エールを送っている応援団のようにも見えるけれども、その人物がフランス軍士官ルージェ・ド・リール、つまりフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」の作曲者なんだそうな。

フランス東部アルザス地方の中心都市ストラスブールのロアン宮殿で見たラ・マルセイエーズの作曲者ルージェ・ド・リールの絵

彼が「ラ・マルセイエーズ」を作曲したのは西暦1792年のこと。但し、当時の曲名は「ライン軍軍歌」だったらしい。つまり、革命を守るためにオーストリアと戦おうというフランス軍のライン川方面軍の軍歌としてストラスブールで作った歌だった。

その後、その歌を若い義勇軍兵士がフランス南部プロヴァンス地方港町マルセイユで歌った。それを聞いたマルセイユの部隊の兵士たちが自分たちの行進曲としたらしい。やがてマルセイユの兵士たちが首都パリに入城の際に歌ったことで有名になり、西暦1795年に「ラ・マルセイエーズ」がフランス国歌とされたんだそうな。

ちなみに、パリに入城したマルセイユの兵士たちは、やがて民衆とともにテュイルリー宮殿の襲撃に参加し、フランス王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットの監禁という結果になるんだ。(二人の処刑はその翌年。)

ストラスブールに立つグーテンベルク像

ストラスブール市内のロアン宮殿から少し歩けば、グーテンベルク広場に出る。その広場に立っているのが、活版印刷を発明したグーテンベルクの像(下の画像)なんだ。

フランス東部アルザス地方の中心都市ストラスブールの広場に立つグーテンベルク像

グーテンベルクはドイツのマインツで生まれている。でも、そのマインツの市参事会との関係が悪くなり、西暦1430年代にストラスブールに移住してきたらしい。そして、アルザス地方のワイン作りで使われるブドウ圧搾機を見て、活版印刷術を思いついたんだそうな。但し、グーテンベルクはストラスブールで不遇な日々を過ごし、西暦1444年にはドイツに戻ったらしい。

いずれにせよ、グーテンベルクの活版印刷は、聖書の印刷を可能とし、宗教改革の重要な基盤となったみたい。プロテスタントの人々は聖職者に頼らずに自分で聖書を読むことを重視していたんだ。だから印刷された聖書と文字を読む能力が重要となったわけだ。

そんなプロテスタントの指導者ジャン・カルヴァンは西暦1536年にスイスのバーゼルで「キリスト教綱要」を出版し、多くの人々に影響を与えたらしい。そのジャン・カルヴァンはこのストラスブールで西暦1538年から3年間を過ごしたんだそうな。

そんなジャン・カルヴァンの説いた考えは、各地で大きな影響を与えている。スコットランドでカルヴァンの教えを信じる人々(プレスビテリアン 長老派)と対立したスコットランド女王メアリー・スチュアートは退位させられ、スコットランド湖ロッホ・レーベンに幽閉されている。

そのスコットランド女王メアリー・スチュアートの孫にしてイングランド王ともなっていたチャールズ1世(スコットランドではチャールズ6世)は、スコットランドのカルヴァン派と対立して戦争となり、やがてはイングランドの清教徒革命において処刑されている。

フランスにおいてもユグノー(フランスのカルヴァン派プロテスタント)とローマの教皇に従うカトリックとの対立が激化し、サン・バルテルミーの虐殺などを経て、やがてはヴァロワ家が断絶し、ブルボン家のフランス王アンリ4世の即位に至っている。その結果としてアンリ4世の子孫のルイ14世太陽王がフランス王となり、ストラスブールを含むアルザス地方を併合し、やがてはプロテスタントを抑圧するわけだ。因果はめぐると言うべきか。


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