ロワール川のほとりのブロワ城に到着シャンボール城を出発したバスは、しばらく田園地帯を走った後、ロワール川のほとりの道を走り始めた。やがて遠くにブロワの街が見えてきた。人口は50万人ほど。「ブロワ」とはケルト系の言葉で狼を意味するとか。
そしてロワール川の対岸に見えてきたのが、上の画像のブロワ城だ。ブロワの街の中央にある中世フランスの城だね。そのブロワ城の下でバスを降り、歩いて城山を登る。ちなみに、ブロワ城には大きなバッグを持ち込めないとかで、荷物などはバスの中に残しておいた。
ブロワ城とフランス王ルイ12世このブロワ城を築いたのは、ブロワの街を支配していたブロワ伯だった。そのブロワ伯から西暦1391年にブロワ城を買い取ったのが、フランス王シャルル6世の弟のオルレアン公ルイだった。(後にオルレアン公ルイはブルゴーニュ公ジャンに暗殺された。)その息子のオルレアン公シャルルは、西暦1415年のアジャンクールの戦いで捕虜となり、イギリスで25年間も捕われの日々を過ごしたらしい。(彼はフランスの王位継承権を持っていた為に、イングランド王ヘンリー5世は身代金で釈放することを認めなかったんだそうな。) そんなわけでブロワ城の領主がイングランドで捕虜となっている間も、イギリスとフランスとの間では百年戦争が続いていた。そして西暦1429年、オルレアンを包囲するイギリス軍との戦いに出撃するジャンヌ・ダルクは、このブロワ城でランスの大司教から祝福を受けたんだそうな。 西暦1440年、長くイギリスで捕虜となっていたオルレアン公シャルルが解放され、このブロワ城に戻ってきた。そして三度目の結婚をして生まれたルイ、そのルイが西暦1498年にフランス王ルイ12世として即位した。
フランス王ルイ12世は、父が住んだこのブロワ城に住み、しかも新しい翼を西暦1503年に完成させている。上の画像がその翼なんだけど、入り口の上にはフランス王ルイ12世の騎馬像もあるんだ。但し、その騎馬像はフランス革命の後に破壊され、後に復元されたものらしいけどね。
ブロワ城とフランス王フランソワ1世フランス王ルイ12世と王妃との間には数人の男子が出来たもののいずれも死産だったり流産だった。つまり、成長したのは王女たちだけだった。その王女を従弟の息子を結婚させ、そのお婿さんを皇太子にした。そのお婿さんが西暦1515年に即位したフランス王フランソワ1世というわけだ。先王の娘だった王妃クロードの望みに従い、ブロワ城を改修し増築したフランス王フランソワ1世。下の画像の右側にあるのが、フランソワ1世によって作られた翼と名高い螺旋階段なんだそうな。
でも、西暦1524年には王妃クロードが亡くなった。その後のフランス王フランソワ1世は、このブロワ城で過ごすことは殆どなかったらしい。そして西暦1527年、フランス王フランソワ1世はパリのルーブル要塞(今の美術館)を王宮と定めている。
全くついでながら、フランス王フランソワ1世の王妃クロードの侍女の一人に、やがてイングランド王ヘンリー8世と結婚し、後にロンドンのテムズ川のほとりのロンドン塔で幽閉・処刑されたアン・ブーリンもいたらしい。
ブロワ城とフランスの宗教戦争(ユグノー戦争)その後のフランス王家の人々は、ロワール川流域のブロワ城ではなく、フォンテーヌブロー宮殿などのパリ近くの城館などに住んでいたらしい。フランソワ1世の息子のアンリ2世、そのまた息子たちのフランソワ2世(その王妃はスコットランド女王メアリー・スチュアート)、シャルル9世もブロワ城には住まなかった。ところが、フランソワ2世とシャルル9世の末弟のアンリ。彼は王統の途絶えたポーランドの王になっていたんだけど、兄のシャルル9世の死に伴い、西暦1574年にフランス王アンリ3世として即位した。 ところが、フランスの宗教戦争(ユグノー戦争)の激化の過程で、ローマの教皇に従うカトリック同盟のリーダーだったギーズ公アンリと対立。パリ市民がギーズ公アンリを支持した結果、フランス王アンリ3世はパリにいることもできず、ロワール川流域のブロワ城へ移ってきたらしい。
そして西暦1588年12月、このブロワ城で三部会が開かれた。その三部会に参加する為にブロワ城に来たギーズ公アンリ、その弟のギーズ枢機卿ルイの二人は、フランス王アンリ3世によって謀殺された。上の画像の部屋が、ブロワ城内にあるギーズ公殺害の場所なんだそうな。
ブロワ城とフランス王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスユグノー(プロテスタント)でありながらフランス王となったブルボン家のアンリ4世。でも、パリ市民の多くはカトリックだった。そんなわけでカトリックに改宗してパリに入ったアンリ4世は、このブロワ城には住まなかった。そのフランス王アンリ4世が西暦1610年にカトリックによって暗殺された後、フランス王となったのは息子のルイ13世だった。そのルイ13世は西暦1617年に母親のマリー・ド・メディシス(メディチ)をブロワ城に幽閉した。 というのも、イタリアのフィレンツェのメディチ家出身の母マリー(イタリア風にはマリア・デ・メディチ)は、カトリックを優遇しすぎたらしい。父のフランス王アンリ4世がようやく沈静化させたフランスの宗教戦争(ユグノー戦争)が、母のカトリック優遇によって再燃してはたまらない。というわけで、母のブロワ城幽閉に至ったらしい。 ところが、この母親のマリー・ド・メディシスも大人しくはしていない。西暦1619年にブロワ城を脱出した。かなり太っていたマリーだったけど、縄梯子を下って脱出したらしい。自由を回復したマリーはルイ13世の弟と一緒に反乱を起こしたものの鎮圧されたらしい。 しばらくは息子のフランス王ルイ13世と仲良くしていたマリー・ド・メディシス。でも、西暦1631年にフランスから追放されているところを見ると、裏で陰謀でも画策していたのかな。結局、マリー・ド・メディシスはベルギーのブリュッセルなどに亡命し、やがて西暦1642年に亡くなったらしい。 ついでながら、この西暦1642年なんだけど、お隣のイギリスでは清教徒革命の内戦が起きている。その結果、マリー・ド・メディシスの娘ヘンリエッタ・マリアが結婚したイギリス国王チャールズ1世が処刑された。その後の王政復古でイギリス国王チャールズ2世(ヘンリエッタ・マリアの息子でマリー・ド・メディシスの孫)が即位したものの、その弟でカトリックだったイギリス国王ジェームズ2世は名誉革命で国を逃れてフランスで亡命生活を送ったわけだ。カトリックとプロテスタント、宗教は難しいね。
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