再びロワール川のほとりの道12時前にはブロワ城を出発し、バスに乗り込む。ブロワ城は良かった。ロワール川に浮かぶ姿も良かったし、建物も内部も、そして中世から近世にかけてのフランス王家の歴史も興味深い。そんな余韻を楽しむ私たちを乗せて、バスはロワール川(下の画像)の北岸を西へと走る。ロワール川の川幅は想像以上に広くて、流れもゆるやかだよね。昔から水運に利用されてきたというのも納得だね。
15〜16世紀のフランス王室の宮廷は、船を連ねてロワール川流域を移動していたらしい。フランス王フランソワ1世はパリのルーブル要塞(今の美術館)を王宮と定めたらしいけど、フランス王の宮廷が恒常的にパリに置かれるようになったのは、宗教戦争(ユグノー戦争)を勝ち抜いたアンリ4世の頃からなんだそうな。
シュノンソーの村でランチやがて13時にシュノンソー城の近くにあるシュノンソーの村(下の画像)でバスを降りる。まずは村のレストランでランチだそうな。
今日のバス・ツアーの会社が手配してくれていたランチは、川スズキ(どんな魚だ ・・・ )のクリーム煮と野菜サラダ。付け合せはジャガイモの煮物、豆とベーコン。とっても「田舎」風の料理が美味かった。別料金だけど、ワインはもちろんロワールの白を合わせたよ。量はともかく、味は満足。
シュノンソー城へと続くプラタナスの並木道ランチとワインの余韻を楽しみながら、村からシュノンソー城へと続く道を歩く。下の画像の道はプラタナスの並木道だそうな。
シュノンソー城に着く前に予習ね。このシュノンソー城は「6人の奥方の城」とも言われるらしい。詳しい話は別に書くとして、その 6人は以下の通りなんだそうな。
上の 6人の奥方たちは、今に残るシュノンソー城を作り上げる上でなんらかの足跡を残した女性たちらしい。例えば、最初の財務官トマ・ボイエ夫人のカトリーヌは、実質的にこのシュノンソー城の最初の建物を作り上げた人物なんだそうな。元々の城の所有者のマルク家からシュノンソー城を買い取ったトマ・ボイエ氏は、仕事が忙しくていつも留守にしていた。その間に夫人カトリーヌが城造りを指示していたというわけだ。
シュノンソー城が見えてきたやがてプラタナスの並木道を抜け、広い庭に出る。そこから眺めたシュノンソー城の様子が下の画像だ。
ちなみに、正面にシュノンソー城を見て、左側にはディアーヌの庭がある。そして右側にはカトリーヌの庭がある。今は城をはさんで対峙するディアーヌとカトリーヌなんだけど、昔はフランス王アンリ2世を間にして二人の女性が対峙していたらしい。
シュノンソー城、カトリーヌ・ド・メディチ、ディアーヌ・ド・ポワチエつまり、フランス王アンリ2世の正妻で王妃が、イタリアのフィレンツェの名家メディチ家の嫡流から出たカトリーヌ・ド・メディチ。アンリ2世の愛妾だったのが、ディアーヌ・ド・ポワチエだった。元々はアンリ2世はこのシュノンソー城をディアーヌに与えた。そのディアーヌが造ったのが、城に向かって左側にあるディアーヌの庭だね。ところが、西暦1559年にフランス王アンリ2世が亡くなり、王妃カトリーヌ・ド・メディチがディアーヌ・ド・ポワチエからシュノンソー城を取り上げちゃった。そしてカトリーヌが造ったのが、カトリーヌの庭なんだそうな。 ついでながら、父親のフランス王フランソワ1世はハプスブルク家の皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の宿敵だった。そのフランソワ1世は、皇帝との戦いの為にローマの教皇を味方にしておきたかった。その当時のローマ教皇クレメンス7世がメディチ家の出身だったものだから、そのメディチ家の姫を息子アンリ2世のお嫁さんにもらったわけだ。 ちなみに、このカトリーヌ・ド・メディチのお子さんは多いんだけど、フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世、それにマルグリット・ド・ヴァロワ(映画「マルゴー」の主役のマルゴーのこと)などなどだね。ちなみに、そのマルゴーとブルボン家のアンリ(後のフランス王アンリ4世)がパリのノートルダム大聖堂で結婚した直後にサン・バルテルミーの虐殺が起こっているんだ。
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