シュノンソー城のマルクの塔プラタナスの並木を出て、左手にディアーヌの庭、右手にカトリーヌの庭を見ながら、シュノンソー城に向かって歩く。やがて右手にマルクの塔(右の画像)が近づいてくる。この塔は13世紀に建てられた当初のシュノンソー城のわずかに残った遺構なんだそうな。 但し、16世紀初頭にトマ・ボイエ(というよりは奥方のカトリーヌ・ブリコネー)によって、このマルクの塔もルネサンス様式に改装されたらしい。 そんなこんなでフランス王の財務官トマ・ボイエと夫人カトリーヌ・ブリコネーが築いたシュノンソー城は、西暦1521年に完成したんだそうな。 ところが、フランス王フランソワ1世にお供してイタリアへ行ったトマ・ボイエは、西暦1524年にミラノで亡くなっちゃった。その後を追うように夫人も西暦1526年に亡くなったらしい。せっかく作り上げたシュノンソー城で楽しむ時間も無く、二人は亡くなってしまったわけだ。 しかも、このシュノンソー城はフランソワ1世に没収されちゃった。王はこのシュノンソー城を狩猟の為の城館として使ったらしい。たしかシャンボール城もフランソワ1世の狩猟の城館だったはずだけどね。
シュノンソー城にあるディアーヌの庭マルクの塔を右手に見ながら進み、シュノンソー城の城館に入る手前で左に向けば、眺めることの出来る景色が下の画像なんだ。
上の画像にある庭園を造ったディアーヌ・ド・ポワチエは西暦1499年の生まれだった。対して、フランス王アンリ2世も王妃カトリーヌ・ド・メディチも西暦1519年の生まれだった。つまり、アンリ2世は20歳も年上の女性を愛妾としていたわけだ。 シュノンソー城のギャラリーそんなディアーヌ・ド・ポワチエが築かせた橋の上に、カトリーヌ・ド・メディチが建てさせたのが、下の画像にあるギャラリーだった。
このギャラリーの工事が始まったのが西暦1576年、その翌年には彼女の息子でフランス王のアンリ3世の為の舞踏会がこのギャラリーのお披露目となった。
シュノンソー城の中のカトリーヌ・ド・メディチの寝室下の画像は、シュノンソー城の中に残るカトリーヌ・ド・メディチの寝室の様子なんだ。自分が建てたギャラリーで気に入りの息子の為の舞踏会を開いた夜は、この寝室で機嫌よく眠ったんだろうね。
余談ながら、上の画像の右端にちょこっと見えているのは、木に描かれたコレッジョの「キューピッドの教育」(あるいは「愛の教え」)の一部なんだ。そのキャンバスに描かれたものがイギリスの首都ロンドンのナショナル・ギャラリーにあるらしい。
ついでながら、かつてカトリーヌ・ド・メディチは次男シャルル9世と一緒に予言者ノストラダムスに会っている。その際にノストラダムスは同行した少年(後のブルボン家の初代フランス王アンリ4世)がフランス王になると予言したとか、しなかったとか ・・・ 。
シュノンソー城の中のフランス王アンリ3世の王妃の寝室フランス王アンリ3世が暗殺されて残されたのは、王妃のルイーズ・ド・ロレーヌ・ヴォーデモンだった。下の画像は、シュノンソー城の中にある王妃ルイーズの寝室の様子なんだ。
先に亡くなった義母のカトリーヌ・ド・メディチからこのシュノンソー城を相続していたルイーズは、アンリ3世の死後は修道女と共にこの城で過ごしたらしい。しかも、常に白い喪服を着ていたんだそうな。
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