東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

パリに住んだ ・・・ つもりの 9日間 (フランス)

パリからロワール、ノルマンディー、シャルトルまで

14. バイユー・タペストリーと大聖堂 (ノルマンディー)

バイユー・タペストリー美術館

11時20分にバイユー駅に到着し、まずは帰りの電車の時刻を確認 ・・・ している間に、駅前に停車していたバイユー・タペストリー美術館行きのバスが出てしまった。おまぬけな話。

でも、焦ることはない。資料によれば、バイユー駅からバイユー・タペストリー美術館までは歩いても10分ほどみたい。バイユーの街を気持ちよく歩いて、間もなくバイユー・タペストリー美術館(下の画像)に到着したよ。

フランス北部ノルマンディーにあるバイユー・タペストリー美術館

入場料を払ってバイユ・タペストリー美術館に入る。入り口で追加の料金を払えば、日本語の説明を聞くことのできるレシーバーを借りることができるんだけど、これは絶対にお薦め。この説明を聞きながら本物のバイユー・タペストリーを見れば、面白さは倍増するよ。

バイユー・タペストリーは素晴らしかった

美術館に入ると、まずはノルマンディー公ウィリアム(後のイングランド征服王ウィリアム1世)によるノルマン・コンクエストに関する展示がある。ノルマン・コンクエストについて全く知らない場合はともかくだけど、知識があるならばこの展示はさっさと通過しても良いんじゃないかな。限られた時間は実物のバイユー・タペストリーを見ることに使いたいよね。

実を言えば、このバイユー・タペストリーに私たちはさほどの期待をしていなかったんだ。イギリスの首都ロンドンに住んでいる関係上、そのイギリスの王家の御先祖様を知っておいても良いだろうと、オリンピックじゃないけど「見る」ことに意義がある ・・・ 程度に考えていたんだ。

ところが、実際に本物のバイユー・タペストリーを見れば、その素晴らしさがよくわかる。もしフランス北部ノルマンディー地方へ行く機会があるならば、イチ押しのお薦めだよ。

そのバイユー・タペストリーなんだけど、もちろん私も画像を撮りたかった。でも、バイユー・タペストリー美術館の中ではカメラは使用禁止だったんだ。それにね、全長70メートルほどもあるバイユー・タペストリーの面白さをカメラで写すのは至難の技だね。やはり実物を見るに如かず。

ついでながら、このバイユー・タペストリーは元々はバイユー大聖堂にあったらしい。でも、西暦1803年にはナポレオン(翌年には戴冠してフランス皇帝ナポレオン)がパリに持って行っちゃった。イギリス上陸作戦を研究する為だったなんて話もあるけど、本当かなあ。(実際のところは西暦1805年にネルソン提督指揮下のイギリス艦隊がトラファルガーの海戦でフランス・スペイン艦隊を撃破して、フランス軍のイギリス上陸の可能性は消えたんだけど。)

バイユー大聖堂にあったバイユー・タペストリー

上にも書いたけど、バイユー・タペストリーは元々はバイユー大聖堂にあったらしい。下の画像が、そのバイユー大聖堂なんだ。

フランス北部ノルマンディーにあるバイユー大聖堂

このバイユー大聖堂が完成したのは西暦1077年のこと。ノルマン・コンクエストを成功させたイングランド征服王ウィリアム1世の異父弟でバイユー司教のオドによって建てられたんだそうな。このバイユー大聖堂の聖別の際には、イングランド征服王ウィリアム1世も参列したいたらしい。

バイユー大聖堂の内部

そして下の画像がバイユー大聖堂の内部なんだ。昔はこの聖堂のどこかに、バイユー・タペストリーが飾られていたんだろうね。

フランス北部ノルマンディーにあるバイユー大聖堂の内部

かつては、そのバイユー・タペストリーを作らせたのは、イングランド征服王ウィリアム1世の王妃マティルダだと考えられていたらしい。故に「王妃マティルダのタペストリー」と呼ばれていたそうな。でも、今ではバイユー・タペストリーを作らせたのはバイユー司教で征服王ウィリアム1世の異父弟だったオドだったとされている。

バイユー司教オドとイングランド征服王ウィリアム1世の一族

では、バイユー大聖堂を建て、バイユー・タペストリーを作らせたウィリアム1世の異父弟のバイユー司教オドはどんな人物だったのか。

生まれたのは西暦1030年頃だったみたい。そして西暦1049年には、まだ十代の少年でありながら、バイユー司教となっている。もちろん、ノルマンディー公ウィリアム(異父兄で後のイングランド征服王ウィリアム1世)のおかげだね。

そして西暦1066年には異父兄ウィリアムと一緒にイングランド南部ペヴェンシー海岸に上陸し、ヘイスティングスの戦いにも同行している。そんな功績に対して、西暦1067年にはバイユー司教オドはケント伯に叙されている。加えて、イングランドに多くの領地を与えられ、イングランド征服王ウィリアム1世の留守の際には国政を委ねられていたらしい。

ところが、西暦1076年にはバイユー司教オドは裁判にかけられている。王やカンタベリー司教区の財産を騙し取ったとされ、多くの財産の返還を命じられた。更に西暦1082年にはイタリアへの遠征を企てたという容疑で失脚し、イングランドにおける領地は没収され、5年間も刑務所に入れられたらしい。但し、バイユー司教の地位は奪われなかったらしいけど。

そして西暦1087年、臨終を迎えたイングランド征服王ウィリアム1世によって許されたバイユー司教オドが釈放された。ところが、その翌年にはウィリアム1世の息子のイングランド王ウィリアム2世に対して、その兄のノルマンディー公ロバート(ロベール)と共に反乱を起こしている。その反乱はすぐに鎮圧されたんだけどね。

反乱に失敗しながらも許されたバイユー司教オドは、ノルマンディー公ロバートと一緒に第1回十字軍に参加したんだ。ところが、聖地に向かう途中の西暦1097年にシチリアで亡くなったんだそうな。

ついでながら、オドに操られていたノルマンディー公ロバートが十字軍から戻る前に次弟のウィリアム2世が亡くなり、西暦1100年に末弟のヘンリー1世がイングランド王に即位していた。ノルマンディー公ロバートはイングランドに攻め込んだものの勝てず、逆にノルマンディーに攻め込んできたイングランド王ヘンリー1世に敗れて捕えられ、28年間も幽閉された末にイギリスのウェールズ南部にあるカーディフ城で亡くなったんだそうな。なんとも壮絶な一族だよね。


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