東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

パリに住んだ ・・・ つもりの 9日間 (フランス)

パリからロワール、ノルマンディー、シャルトルまで

20. ガイヤール城を歩く (ノルマンディー)

ガイヤール城の天守 キープ

ガイヤール城の全体を遠望したら、次はその城の中を歩こう。

フランス北部ノルマンディーの要衝ガイヤール城を歩く

目指したのは、ガイヤール城の中枢ともいうべき天守 キープ、それが上の画像なんだ。

フランス王フィリップ2世(尊厳王)とガイヤール城

武勇で名高いイングランド王リチャード獅子心王が西暦1199年に亡くなった後、イングランド王国とノルマンディー公国を継承したのは、弟のジョン失地王だった。

対するフランス王フィリップ2世(オーギュストあるいは尊厳王)は西暦1202年から攻勢をかけた。そしてフランス王フィリップ2世は西暦1203年にはガイヤール城を攻囲した。でも、守勢のイングランド王ジョン失地王は援軍を送ることも出来なかったらしい。

フランス北部ノルマンディーの要衝ガイヤール城を歩く

そして西暦1204年、ついにノルマンディー防衛の要だったガイヤール城の守備兵たちがフランス軍に降伏した。これでフランス王の艦隊は、パリからセーヌ川を下ってノルマンディーに攻め込むことが出来る。

ノルマンディー公国の首都ルーアンをフランス王フィリップ2世の軍が攻略したのは、その3ヵ月後のことだった。間もなくノルマンディー公国全土がフランス軍の手に落ちた。

西暦911年にヴァイキング(ノルマン人)の指導者ロロにノルマンディーが与えられて後、イングランド征服王ウィリアム1世プランタジネット家のヘンリー2世たちによって支配され続けていたノルマンディーが、久々にフランス王の支配下に戻ったわけだ。

フランス王の手に落ちたガイヤール城には、西暦1334年からはスコットランド王デヴィッド2世と王妃が住んでいた。スコットランドでの王位争いに敗れ、フランスに逃れて来て、フランス王フィリップ6世によって保護されたんだ。(ちなみに、スコットランド王デヴィッド2世は西暦1341年にスコットランドに戻ったものの、やがてイングランドとの戦いに敗れて捕えられ、テムズ川のほとりのロンドン塔に幽閉されたんだそうな。)

ガイヤール城と百年戦争、その後

百年戦争中はガイヤール城はフランスとイングランドの争奪戦の的となった。西暦1419年にはイングランド軍がガイヤール城を落とし、イングランド王ヘンリー5世の居城となった時期も有った。その頃にはノルマンディーのほぼ全土がイングランド軍の支配下に落ちたらしい。

ところが、西暦1430年にはフランス軍がガイヤール城を奪還。でも、西暦1431年にフランスのジャンヌ・ダルクが処刑されると、勢いを取り戻したイングランド軍がガイヤール城を再び奪還した。そして西暦1449年にフランス軍がガイヤール城を攻略し、それ以後はフランスの支配下にあったんだそうな。

フランス北部ノルマンディーの要衝ガイヤール城を歩く

百年戦争の後、西暦1573年にはガイヤール城は見捨てられ、荒廃していってらしい。そしてフランスの宗教戦争(ユグノー戦争)に勝ち残ったブルボン家のフランス王アンリ4世が、西暦1599年にガイヤール城の破壊を命じたんだそうな。ローマの教皇に従うカトリック勢力がガイヤール城にたてこもることを警戒したらしい。

ガイヤール城で雨

そんな風にガイヤール城を歩き回っているうちに、雨が降ってきた。あいにくと傘を持っていない。でも、せっかく来たんだから、ガイヤール城をとことん見て歩かないとね。というか、そもそもここには雨を避ける場所も無いんだけどね。

今日は家内がパリに残ったのは正解だったね。雨は降るし寒い。しかも、城にはトイレも無い。こんな場所に家内が来ていたら、絶対に体調を崩しただろうな。

ともかくガイヤール城を歩き回っているうちに何だか妙なものを踏みつけた。なんだろ。足許を見れば、巨大なナメクジだった。背筋が寒くなったよ。でも、雨にもナメクジにも負けず、ガイヤール城を歩き回る。


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