パリのシテ島にあるコンシェルジュリーはかつて王宮だったステンド・グラスの美しいサント・シャペルから歩いてすぐ、同じシテ島の中にあるコンシェルジュリーに到着。元々はフランス王フィリップ4世の王宮だった建物なんだそうな。下の画像は、そのコンシェルジュリーなんだけど、撮影したのは三日後の朝のこと。コンシェルジュリーはパリの中心にあるシテ島の西側にあるんだけど、建物は東に面している。だから、撮影するならば朝が良いんだ。遅い時間になると、逆光だったり、日陰になったりするからね。
ちなみに、上の画像のコンシェルジュリーの左端に角ばった塔が見えるよね。この塔を築いたのはフランス王ジャン2世だった。このジャン2世、フランスとイギリスが戦った百年戦争の最中の西暦1356年にポワティエの戦いに敗れ、武勇で名高いイギリスのエドワード黒太子に捕えられてしまった。そして西暦1364年にロンドンで亡くなったんだそうな。
牢獄となったコンシェルジュリーフランス王ジャン2世が捕われていた期間は、その息子が摂政として国政を取り仕切っていた。そんな状況の西暦1358年、パリに反乱が起こり、王家の人々はルーブル城に移ったらしい。やがてジャン2世が亡くなってフランス王となった息子のシャルル5世は、ルーブル城を王宮としたんだそうな。他方で、それまでの王宮だったコンシェルジュリーは牢獄として使われるようになっていった。(下の画像は今のコンシェルジュリーの内部。)
同様の例として、イギリスの首都ロンドンにあるテムズ川のほとりのロンドン塔もイングランド征服王ウィリアム1世による築城の後は王の住居だったけれども、やがては多くの人々を幽閉し処刑する場所になっちゃった。シェイクスピアで有名なリチャード2世やヘンリー6世とか、ヘンリー8世の再婚相手のアン・ブーリンとかね。
コンシェルジュリーとフランス革命そして西暦1789年、フランス革命が始まった。そして西暦1793年には革命裁判所が設置された。その革命裁判所の本部が置かれたのが、このコンシェルジュリーだった。
その革命裁判所は、2年間で2700人に死刑判決を下した。そして死刑が執行されるまで、死刑囚たちはコンシェルジュリーの中の牢獄(上の画像は牢獄のドアが並ぶ廊下)に入れられていたんだ。
マリー・アントワネットの礼拝堂でも、このコンシェルジュリーの牢獄に入れられた死刑囚の中で最も有名な人物はマリー・アントワネットだよね。西暦1793年8月に彼女はこのコンシェルジュリーの牢獄に入れられたんだ。そして同じ年の10月にルイ16世の王妃マリー・アントワネットが処刑された。
上の画像は、コンシェルジュリーの中にあるマリ・アントワネットの礼拝堂。但し、フランス皇帝ナポレオンが敗れて王政復古となった後のフランス王ルイ18世の命によって作られた礼拝堂なんだ。でも、その礼拝堂はマリー・アントワネットの独房があった場所に作られている。(ロベスピエールがいた独房の一部も取り込まれているのは歴史の皮肉かも ・・・。)
歴史あるコンシェルジュリーでパーティはいかが西暦2013年4月、フランス政府が作成したカタログの中にこのコンシェルジュリーが掲載されていたらしい。カタログといっても、この建物を売りにだしたわけじゃない。パーティ会場などとして使用する為にレンタルするということなんだそうな。処刑された王妃マリー・アントワネットゆかりのコンシェルジュリーに限らず、歴史的に名高い人物にゆかりの建物などの国有財産を活用して歳入を増やし、財政赤字の縮小を狙うということらしい。悲劇の王妃がフランスに貢献するわけだね。
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