東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

春のイングランド南部の旅(イギリス)

09. ヘンリー8世が築いたディール城

イングランド王ヘンリー8世が築いたディール城

イングランド南東部のケント州の中心都市カンタベリーを出て南東に走り、やがて英仏海峡に面したドーバーに出る。ドーバー城には後で来るとして、その前に海辺を北東に向かうこと 7マイル( 11km)ほどで、到着したのが下の画像にあるディール城なんだ。あの悪名高いイングランド王ヘンリー8世が築いた城なんだそうな。

イングランド王ヘンリー8世が築いたディール城(イギリス)

ヘンリー8世は、多くの修道院を解散させたことで知られている。その解散させた修道院の建物を解体し、そのレンガをここに運んで来たらしい。ディール城の建設に使われたレンガの中には、解体された修道院の建物のレンガも少なくないんだそうな。そんなレンガには、修道院ならではの彫刻があったりするらしいよ。

そういえば、滋賀県にある安土城の石段や石垣には石仏が使われていたりしたね。織田信長とイングランド王ヘンリー8世に共通点があったりするのかも。

ディール城は大砲の戦いに備えてある

このディール城が築かれたのは、西暦1539年のこと。そしてこのディール城は、当時の最新兵器である大砲での戦いに備えたものだった。例えば、ディール城の城壁などは低く築かれており、しかも直線ではなく円筒形をしているでしょ。つまり、大砲の砲弾が命中しにくく、仮に命中してもその衝撃を逃がすような構造にしてあるわけだ。

イングランド王ヘンリー8世が築いたディール城の堀(イギリス)

しかも、城の周囲は上の画像に見るような深い堀に囲まれているんだ。ちなみに、地上から見てもわからないんだけど、このディール城は空から見下ろせば、バラの花のような形をしているんだそうな。

イングランド王ヘンリー8世がディール城を築いた事情って ・・・

カンタベリー大聖堂のページでちょいと詳しく書いたけど、王妃キャサリン・オブ・アラゴンと離婚したかったイングランド王ヘンリー8世は、ローマの教皇庁と断絶し、カンタベリー大聖堂を頂点とする英国国教会を作り上げたわけだ。その上で西暦1533年には王妃キャサリンと離婚し、アン・ブーリンと再婚している。しかも、翌年の国王至上法で英国国教会を完全に支配下に置いてしまったんだ。

そんなイングランド王ヘンリー8世に、ローマ・カトリックの教皇パウルス3世もさすがに怒る。とうとうヘンリー8世を破門しちゃった。となれば、長年の宿敵でカトリック国でもあるフランスやスペインもイングランド侵攻を企むかもしれない。

特に離婚した王妃キャサリンの甥にあたるハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)(キャサリンの姉フアナの息子にあたる)も怒っているかもしれない。そんなカトリック勢力の上陸を懸念したヘンリー8世が築いたのが、このイングランド南岸にあるディール城だったわけだ。

ちなみに、イングランド王ヘンリー8世を破門したローマ教皇パウルス3世は、あの名高いイエズス会の設立を承認した教皇だった。しかも、やがてプロテスタント(ユグノー)とカトリックとの間のユグノー戦争が起こり、サン・バルテルミーの虐殺なども起こるフランスも、この時点ではまだカトリック国だった。ある意味ではイングランド王ヘンリー8世の動きはちょいと早すぎたのかもしれないね。

ディール海岸は侵略者の上陸地点だった

そんなイングランド王ヘンリー8世の懸念もあながち妄想に基づいたものとはいえないんだ。

古代ローマ帝国のシーザーやヴァイキングが上陸したディール海岸(イギリス)

というのも、ディール城のすぐ近くのディール海岸(上の画像)は、歴史上の侵略者たちのお気に入りの上陸地点だったから。例えば、紀元前55年にブリテン島に遠征した古代ローマ帝国のカエサル(シーザー)や、北欧などからやって来たヴァイキングたちもこのディール海岸からイングランドに上陸したんだそうな。


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