カンタベリーの城壁の外にある聖アウグスティヌス修道院跡昨夜はカンタベリー大聖堂からも近い古いホテルで泊まった。ホテルのレストランで夕食の後は、同じくホテルの中にあるバーでちょいと一杯。天井や壁の真っ黒な木材が、このホテルの歴史の古さを感じさせたね。そして今朝。昨日と比べれば少しだけ天気は良いかな。朝食の後で向かったのは、カンタベリーの城壁のすぐ外にある聖アウグスティヌス(オーガスティン)修道院跡。下の左右の画像がその様子。
キリスト教の歴史の中で、聖アウグスティヌスと呼ばれる人物は二人いるんだそうな。「ヒッポの聖アウグスティヌス」と「カンタベリーの聖アウグスティヌス」。言うまでもなく、このページに登場するのは後者の聖アウグスティヌスだね。
カンタベリーの聖アウグスティヌスと修道院西暦596年、ローマの教皇グレゴリウス1世がアウグスティヌスに命じた。イングランドに赴き、その土地の人々にキリスト教を布教せよと。翌年にイングランドに到着したアウグスティヌスは、ケント王国のエゼルベルト王から布教の許しを得ることが出来た。エゼルベルト王の王妃は、以前からキリスト教徒だったらしい。(間もなくアウグスティヌスはプロヴァンス地方の街アルルのサン・トロフィーム教会で正式にイングランドの司教とされた。)アウグスティヌスは多くの人々に洗礼を施し、古い教会を復興させたりしたらしい。そして西暦598年、アウグスティヌスは初代カンタベリー大司教に任じられている。西暦602年、アウグスティヌスはカンタベリーの東側、城壁のすぐ外側に修道院を設立した。これが後の聖アウグスティヌス修道院(今は遺跡だけど ・・・)だね。 イングランドを含むブリテン島には、アイルランドから入ったケルト的なキリスト教の典礼が広まっていた。対して、アウグスティヌスはイングランドにローマ・カトリックの典礼を広めようと努力したらしい。しかし、必ずしもローマの典礼を徹底することは出来なかったんだそうな。そんな聖アウグスティヌスは、西暦604年あるいは605年に亡くなっている。
上の画像は聖アウグスティヌス修道院跡を小高い丘から見下ろした風景なんだ。赤い屋根の建物群のこちら側が聖アウグスティヌス修道院の遺跡だね。ちなみに、遠くにはカンタベリー大聖堂のベル・ハリー・タワーも見えている。
ついでながら、このキリスト教を受け入れたケント王の娘さんは、イングランド北部の要衝ヨークを支配していたノーサンブリア王エドウィンに嫁いだんだそうな。そこで、王にキリスト教を受け入れさせ、やがてヨーク・ミンスター(大聖堂)となる教会を建てさせたらしい。但し、後にノーサンブリア王エドウィンが戦死してヨークが略奪され、ノーサンブリア王国はキリスト教を捨てたりもしたらしいけど。
また、ケント王国の王女はウェールズの東側に勢力を持っていたマーシア王国の王とも結婚し、そこで生まれた王女が後にイングランドの聖人にしてチェスターの守護聖人となった聖ワーバラだったりする。つまり、このケント王国のカンタベリーからキリスト教がイングランドに広まっていったわけだね。
カンタベリーに残るノルマンの古城跡聖アウグスティヌス修道院跡からカンタベリー市内に戻る。その途中で見かけたのが、下の画像にあるノルマン時代の古城跡なんだ。
ノルマンディー公ウィリアムによるノルマン・コンクエストの後、チラムなどのイングランド各地は、ノルマン人貴族が領主となった。そんなノルマン人が11世紀にカンタベリーに築いたのが、上の古城なんだそうな。但し、この古城跡は危険な為に内部には入れないらしい。カンタベリーを囲む城壁も、同じく11世紀のノルマン人が築いたものなんだそうな。
カンタベリーから出発昨日から今日はカンタベリーを色々と見て歩いた。次の予定もあることだし、そろそろ出発するか。というわけで、ホテルに戻り、駐車場に停めておいた車に乗ってカンタベリーを出る。今日はこれから南東へ向かい、海辺に出る予定なんだ。
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