東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

スコットランドの旅(イギリス)

04. アーカート城にバグパイプの音色

ネス湖のほとりのアーカート城

朝食を食べて、更に元気になった。次はネス湖のほとりに立つアーカート城だ。(このアーカート城をめぐってイングランドとスコットランドが争奪戦を繰り広げたこともある。)

ネス湖のほとりのアーカート城(スコットランド、イギリス)

しかし、このアーカート城の名前の発音が難しい。ここでは「アーカート城」と書いたが、「アークハート城」と書いてもよいのかもしれない。他方で、日本のガイドブックの中には「ウルクハート城」と書いているものもある。手許にある英文の資料では "urkut" と発音しろと書いてある。難しいね。

アーカート城の争奪戦の歴史

アーカート城の駐車場に車を止めて、アザミの花の咲く坂道を下り、城(の廃墟)に入る。ネス湖を見渡すことの出来る景観の良い場所。立地の良さは、アーカート城の争奪戦の歴史が示しているよね。

ネス湖のほとりのアーカート城(スコットランド、イギリス)

このアーカート城の歴史を手短に書いておくかな。

  • 西暦1228年にスコットランドで反乱が起き、それを鎮めたスコットランド王アレクサンダー2世は、義理の息子をアーカート城の領主として周囲の押さえとした。この城跡で最も古い部分は、その時代にまで遡るらしい。
  • 13世紀末、イングランド王エドワード1世がスコットランドに勢力を伸ばし、アーカート城はその支配下に入った。(先にエドワード1世はウェールズの反乱を鎮圧していた。)
  • 西暦1297年、スコットランド独立派のサー・アレクサンダー・フォーブズがイングランド勢力からアーカート城を奪還した。
  • 西暦1303年、イングランド王エドワード1世が再度アーカート城を占拠した。
  • 間もなく、スコットランドのロバート・ブルースがアーカート城を奪い返した。(ロバート・ブルースは、ウィリアム・ウォレスと並ぶスコットランド独立の英雄かな。)
  • 14世紀後半から15世紀にかけて、スコットランド王家とハイランド西部に勢力を持っていたマクドナルド一族との間にアーカート城の争奪戦が続いた。
  • 16世紀には、ハイランドのマクドナルド一族が二度にわたってアーカート城を攻囲した。
ちっとも手短でなかったかな。でも、これほどにアーカート城の争奪戦が続いたというわけなんだ。余談ながら、上の年表に何度も登場しているイングランド王エドワード1世だけど、西暦1283年にはウェールズにカーナフォン城を築いたり、西暦1301年には息子をプリンス・オブ・ウェールズに叙任したり、八面六臂の活躍をする王様だったみたい。

アーカート城のバグパイプ奏者

ネス湖のほとりのアーカート城のバグパイプ奏者(スコットランド、イギリス) 上の画像にも小さく写っているけれども、ネス湖のほとりのアーカート城の荒れ果てた城壁の上に立ち、中年の男性がバグパイプを演奏している。右の画像にもあるけど、スコットランドの民族衣装のヒゲの男性が、ショーン・コネリーみたいに渋いんだ。

ロンドンのオックスフォード・サーカスあたりにもバグパイプを演奏しているバスカーがいるけど、このアーカート城で聞くバグパイプとは響きが全く違うよね。

その響きの違いは、はてさてバグパイプ奏者の技の違いか、それとも古城にこもったスコットランドの魂のせいなのか ・・・ 。


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