東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

コーンウォール と デヴォン
(イギリス、1995年8月)


1995年8月28日(月)
12. グラストンベリーの修道院
アーサー王の墓があった ??

とうとう旅も最終日となった。今日はロンドンに戻ることになっている。また明日からは仕事だからね。

ホテルで朝食を済ませ、荷物をまとめて車に積み込み、エクセターのホテルを出発。高速道路 M 5 に乗り、北東に向かう。といっても、真っ直ぐにロンドンに戻るわけじゃないんだ。

エクセターから 40 マイル(約 60km)ほどのところにあるジャンクション 23 で高速を降り、A 39を 12 マイル(約 20km)ほど走れば、目指すグラストンベリーの街に到着。

アーサー王の墓があった ?? グラストンベリー修道院

グラストンベリー修道院の石の柱と青空 人口 1 万人にも達しない小さな街グラストンベリーなんだけど、街の中にはかつての修道院の廃墟が残っている。

この修道院が解散させられたのは、1539年のこと。エリザベス女王の父であるヘンリー8世の命令だった。

離婚問題などでローマ・カトリックと争っていたヘンリー8世は、ローマ教皇に近い修道院を目の敵にしていたからなんだ。修道院が保有していた土地や財宝が欲しかったということもあるけどね。

イギリスには、今でもあちこちに修道院の廃墟が残されているけど、その全てがヘンリー8世の仕業だと思って間違いはないと思うよ。

例えば、ヨークの郊外に残るファウンティンズ・アビーは、世界遺産にも指定されている。ロンドンの近くで捜せば、セント・オバンス修道院(修道院解散後、現在は大聖堂として復活)かな。




グラストンベリー修道院における
アーサー王夫妻の墓の発掘 ??

グラストンベリー修道院にはアーサー王の墓があった ?? 無駄話が長くなっちゃったけど、このグラストンベリー修道院の廃墟を有名にしているのは、アーサー王なんだ。

少なくとも中世の一時期には、このグラストンベリー修道院にアーサー王と王妃グウィネヴィアの墓があったと信じられていたらしい。

資料によれば、まず地下 2 m のところから十字架と石版が発見され、その石版には「アーサー王の墓」であると記されていた。更に 3 mほど掘り下げると、アーサー王とグウィネヴィア王妃の遺体が見つかったんだそうだ。資料によれば、1191年のことと書いてある。

1278年、ウェールズに遠征する途上のイングランド王エドワード1世がグラストンベリーに立ち寄った。王は発掘されたアーサー王の遺骸を黒大理石の棺に葬り直し、祭壇の前に安置した。

しかし、ヘンリー8世の命によりグラストンベリーの修道院が破壊された際、アーサー王の遺骸は失われてしまったんだ。

上の話が本当かどうかはわからない。だけど、アーサー王ではないにしても、アングロ・サクソンとの戦いを続けていたケルト系ブリトン族の君主の墓だったってことはありそうだよね。頭から否定することも難しい。シュリーマンのトロイの例もあるしなあ。

アーサー王の墓があったと伝えられるグラストンベリー修道院の廃墟

現在は廃墟になっている修道院だけど、確かに長い歴史を持つ修道院だったみたいなんだ。2世紀の後半には、第13代教皇聖エレウテリウスがグラストンベリーの教会の「再建」を命じたという記録があるらしい。つまり、この土地はアーサー王がアングロ・サクソン族と戦った(かもしれない) 6 世紀以前から聖なる場所だったわけだ。

しかも、数世紀にわたってローマ帝国の支配を受けたケルト系ブリトン族はある程度はキリスト教化されていただろうから、その君主 (??) たるアーサー王がキリスト教の聖なる場所に埋葬されたって不自然じゃないよね。

アーサー王の最期(あるアーサー王物語より)

  • 円卓の騎士たちと共にブリテンを統一したアーサー王だったが、やがて彼の王国にも黄昏が訪れることになる。

  • 王妃グウィネヴィアと恋に落ちた湖の騎士ランスロットと戦う為、アーサー王は軍を率いて海を渡ったんだ。行き先はランスロットの領地のあったフランスだとされている。

    王国の留守を委ねられたのは、アーサー王の息子モルドレッドだった。

  • 円卓の騎士の一人であるランスロットと戦うことに、アーサー王は迷いを覚えていた。

    しかし、ランスロットによって弟を殺されたガウェイン卿(アーサー王の甥)の主戦論に引きずられ、戦いを止めることは出来なかった。

  • 戦場にあるアーサー王の許へ急を報せる使者がきた。アーサー王の留守を預かる王の息子モルドレッドが、アーサー王が戦死したと偽りの発表を行い、カンタベリーで王として戴冠式を行ったという。

    報せを受けたアーサー王は、ランスロットとの戦いを中止し、兵をまとめて王国に向かい、ドーヴァーに上陸した。

  • アーサー王の軍とモルドレッドの軍との間の戦闘により、アーサー王の甥ガウェイン卿が戦死。

    アーサー王の夢枕に立ったガウェイン卿は、モルドレッドとの戦いを避けるよう王に説いた。

  • アーサー王はモルドレッドに使者を送り、両者の間に和睦が成立した。騎士たちを従えたアーサー王とモルドレッドは和睦を祝う祝宴を開いた。

    その祝宴の最中に茂みの中から毒蛇が現われ、一人の騎士にかみついた。騎士は剣を抜き、毒蛇を切り殺した。しかし、剣が抜かれたのを見た騎士たちは和睦が破られたと誤解し、戦いが始まってしまった。

  • 戦場で相対したアーサー王と息子モルドレッド。アーサー王がモルドレッドの身体を槍で貫いた直後、モルドレッドの剣はアーサー王の兜を割っていたんだ。

    傷ついたアーサー王は、海辺の僧院に運び込まれた。王の命により、名剣エクスカリバーは湖に投げ込まれた。

    やがて、貴婦人達を乗せた小舟が岸に近づいてきた。騎士によってアーサー王は小舟に運び込まれた。貴婦人の膝に頭を乗せて横たわるアーサー王。アーサー王と貴婦人を乗せた小舟は、沖へ漕ぎ出して行った。

  • アーサー王の死を知ったランスロットは、王妃グウィネヴィアを訪ねた。しかし、自分とランスロットとの恋の為に王や騎士たちを死なせたことを悔いる王妃は、修道院で祈りの生活に入っていた。

    王妃の下を去ったランスロットも、僧院に入り、祈りの生活を始めた。

  • やがて、王妃グウィネヴィアも修道院で亡くなった。ランスロットによってグラストンベリーに運ばれた王妃の亡骸は、アーサー王の隣に葬られた。

【参考】ホテル検索


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