東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
コーンウォール と デヴォン
(イギリス、1995年8月)
アーサー王 と コーンウォール・デヴォンの略年表
2. 古代ローマ帝国の時代
- BC 55-54年、イタリアのローマを発してガリア(フランス)に進出していた古代ローマのシーザー(カエサル)が、イギリス(ブリテン島)に侵入した。ケルト人は戦車を以てローマ軍に抵抗した。
シーザーの残した「ガリア戦記」は、ケルトの僧ドルイドの説く宗教について書いている。それによれば、魂は決して消滅せず、ある肉体が滅びれば他の肉体へ移るとされていた。
- AD 43年、古代ローマの皇帝クラウディウスが兵を率いてイギリス(ブリテン島)に上陸した。ローマ軍は直ちにイングランド東南部を征服した。
しかし、イングランド西部では族長カラタクスに率いられたケルト系ブリトン人が抵抗を続けていた。
- AD 61 年、イケニ族(あるいはイセニ族)の女王ブーティッカが反乱を起こし、ロンドンやコーチェスターなどの街を焼き討ちした。
しかし、やがて反乱はローマ軍によって鎮圧され、女王ブーティッカは自殺した。
- AD 1 世紀後半、ブリテン島のローマ軍は、現在のイングランド北部とウェールズに拠るケルト系の勢力の制圧に忙殺されていた。
他方、ローマ軍はドゥムノニア半島(コーンウォールとデヴォン)には、さほどの注意を払わなかった。当時のローマ軍の痕跡は、エクセター以西には残されていない。
- AD 1世紀末には、ブリテン島の大半がローマ軍によって制圧された。
しかし、ブリテン島北部では、ケルト系ピクト人が抵抗を続け、ローマ軍の進出を阻止した。
- AD 122年、古代ローマの皇帝ハドリアヌスがイングランドの北に城壁(「ハドリアヌスの城壁」)の建設を命じた。この城壁が古代ローマ帝国の北の境界となり、その南側ではローマ化が進んだ。
- AD 3 世紀末、現在のアイルランドに住んでいたスコット人や、ヨーロッパ大陸のサクソン人がブリテン島の海岸地方を荒らした。
- AD 3 世紀から 4 世紀にかけて、アイルランド東南部を拠点としていたディージ王家に指揮されたケルト系スコット人の勢力がウェールズ西南部に定着し、ディヴィド(ダヴェッド)王国を建国した。
- AD 306 年、ブリテンの軍団に推され、ヨークでローマ皇帝として戴冠したコンスタンティヌスは大陸に侵攻し、古代ローマ帝国を再統一した。
- AD 376年、ブリテン島に対するピクト人・スコット人・サクソン人などの侵入が激化した。
ウェールズの中部・東部に住んでいたケルト系ブリトン人の一派である「コルノウイイ」族は、スコット人に圧迫されて移動を始め、ドゥムノニア地域に移住した。彼らの部族名が現在の地域名「コーンウォール」の起源となっている。
コーンウォールの最西端「ランズ・エンド」
右の画像は、コーンウォールの最西端にあるランズ・エンドから見た大西洋の様子。まさしくブリテン島の地の果て。
もう少し詳しく知りたい方は、この旅行記「コーンウォールとデヴォン」の中にある「ランズ・エンド」のページを読んで下さいね。
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ローマ帝国は将軍テオドシウスを送り、ロンドンまで侵入していたピクト人を破り、ハドリアヌスの城壁まで押し返した。
- AD 4 世紀末、ウェールズ西南部に定着していたケルト系スコット人のディヴィド王国は、古代ローマ帝国から同盟国とされ自立を認められた。
ウェールズ西南部を拠点としていたディヴィド王国は次第に勢力を拡大し、ブリストル海峡を制圧。更にドゥムノニア半島(コーンウォール・デヴォン)にまで進出。その結果、ドゥムノニア半島に住んでいたケルト系ブリトン人たちは大陸に逃れ、現在のブルターニュ地方(小ブリテン)に定住した。
他方、侵略者に対抗するため、分立していたブリトン人の諸王国に統合の気配が芽生えた。
- AD 410 年、西ローマ皇帝ホノリウスは、ブリテン島を放棄し、駐留していたローマ軍団を撤退させた。
既に 375年にはドナウ川を、続いて 406年にはライン川を突破してローマ帝国を脅かしていたゲルマン民族に対抗するための措置だった。
古代ローマ帝国の支配下にありながらも存続していたケルト系ブリトン人の諸部族は、ローマ化された族長達あるいはケルト化したローマ貴族たちを支配者として自立することとなった。
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