東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅
コーンウォール と デヴォン
(イギリス、1995年8月)
アーサー王 と コーンウォール・デヴォンの略年表
3. アーサー王の時代
- AD 5 世紀半ば、ケルト系ブリトン人の指導者であるウォルティゲルン(あるいはヴォルティゲルン)は、アイルランドから襲って来るスコット人と現在のスコットランド北部から侵寇して来るピクト人に対抗するために、大陸のサクソン人を傭兵として招いた。
- 5 世紀後半から6世紀にかけて、ドイツ北部に住んでいたアングル人や現在のデンマークに住んでいたジュート人がブリテン島に侵入した。
「アングロ・サクソン年代記」には、491年にイングランド南部のペヴェンシーに上陸したサクソン人が多くのブリトン人を殺したと記録している。
- アングロ・サクソンの勢力伸張に対して、ケルト人を率いて戦ったのがアーサー王だとされている。但し、その実在は確認されてはいない。
同時代の修道士ギルダス(AD 500? - 570?)が書いた「ブリタニアの滅亡と征服について」という書物の中では、ケルト系ブリトン人はアンブロシウス・アウレリアヌスなる人物に指揮されて、アングロ・サクソン人と戦ったとある。
アンブロシウス・アウレリアヌスという名はラテン風だが、ローマ化されたケルト人がラテン名を持っていても不自然ではない。このアンブロシウス・アウレリアヌスは、アーサーの父であるウーゼル・ペンドラゴンの兄に当たるとする記録もあるらしい。
このアウレリウス王と弟のウーゼル・ペンドラゴン王は、ストーン・ヘンジに葬られたとの話もある。
ストーン・ヘンジ
右の画像は、イングランドの南部に残るストーン・ヘンジの様子。
もう少し詳しく知りたい方は、「ロンドンの風景」の中にある「ストーン・ヘンジ」のページを見て下さいね。もっと近づいて撮影した画像も有りますよ。
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- 500年頃、ベイドン・ヒルの戦い(あるいはパドニクスの丘の戦い)において、ケルト系ブリトン人がアングロ・サクソン人に対して大勝利を収めた。その結果、アングロ・サクソンの勢力拡張は停滞に陥った。
この戦いに於けるケルト系ブリトン人の指揮官がアーサー王だったとの解釈もある。
- 520年頃、カムランの戦いにおいて、アーサー王とメドライトが倒れたと記しているのは、950年頃に書かれたウェールズ年代記である。
そのメドライトは、アーサー王を死に至らしめたモルドレッドだとの解釈もある。
アーサー王の墓はグラストンベリー修道院にあった ??
右の画像は、アーサー王の墓があったともされるグラストンベリー修道院の様子。
もう少し詳しく知りたい方は、この旅行記「コーンウォールとデヴォン」の中にある「グラストンベリー修道院」のページを見て下さいね。
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- 562 年、ソールズベリーの戦いに勝ったアングロ・サクソン人が、再びケルト系ブリトン人に対して攻勢をかけ始めた。
大陸からの更なる移住により勢力を増大させたアングロ・サクソン人に対し、ケルト系ブリトン人は後退を続けることとなった。
- 577 年、ディラムの戦いにおいてアングロ・サクソンの一勢力であるウェスト・サクソン(ウェセックス)人がケルト系ブリトン人を撃破した。
その結果、ウェセックス勢力はセヴァーン川の河口に達してブリストルの海峡地域を支配下に収め、デヴォン・コーンウォールのケルト系ブリトン人はウェールズの同朋から切り離された。
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