東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

コーンウォール と デヴォン
(イギリス、1995年8月)


アーサー王 と コーンウォール・デヴォンの略年表

4. ウェセックス王国との戦い

  • 6 世紀末、多くの国に分かれていたアングロ・サクソン諸国家が統合され、七王国(ヘプターキー)が成立した。

    その中でも優勢を誇ったのは、エセルベルト王支配下のケント王国だった。

    このケント王エセルベルト1世は、597年にキリスト教に改宗している。ケントの都カンタベリーには、同時期に建設された聖アウグスティヌス・アビーの廃墟が残っている。

  • 7 世紀初め、アングロ・サクソン人はイングランドのほぼ全域を制圧し、ケルト系ブリトン人はイングランド北部の辺境、ウェールズの西部、デヴォン・コーンウォールに追い詰められた。

    アングロ・サクソン人は、辺境の地で抵抗を続けるケルト系ブリトン人を「ウェアール(異邦人あるいは隷属者)」と呼んだ。その言葉が、やがて「ウェールズ」という名の語源となった。

    同じ頃、イタリアローマからやって来てカンタベリーの初代大司教となった聖アウグスティヌスは、セヴァーン川の河口付近でブリトン人の聖職者と会見を行った。カトリックからの独立色を強めるケルト系キリスト教との融和・統合を図るためだった。

    しかし、両者の会見は失敗に終わった。ウェールズやドゥムノニア(コーンウォールとデヴォン)で信じられていたケルト系キリスト教とカトリックとは、慣習や祭儀だけではなく、教義に於いても違いが大きくなっていた。

  • 614 年、キュネグルズ王の統治するウェセックス王国が、ベアンドゥン(ビンドゥン)の戦いにおいてコーンウォールのケルト系ブリトン人を撃ち破り、デヴォンの一部を支配下に置いた。

  • 7 世紀前半、アングロ・サクソン七王国の一つであるノーザンブリア王国が、アングロ・サクソン人の上に覇権を確立した。

  • 658 年、ウェセックス王国がドゥムノニア(コーンウォールとデヴォン)への攻勢を再開した。キュネグルズ王の後継者であるチェンワルフ王はペオナンの戦いでケルト系ブリトン人を撃ち破り、デヴォンにおける領土を拡大した。

  • 661 年、ウェセックス王国のチェンワルフ王が、ポスベリの戦いでコーンウォールのブリトン人を破り、デヴォンの奥地まで支配を拡大した。

  • 710 年、ウェセックス王イネがドゥムノニア王ジェレイントを撃ち破り、ドゥムノニア王国の深部まで勢力を拡大した。

    ドゥムノニア王国は、コーンウォールからデヴォンにまたがる地域にあったケルト系ブリトン人の王国だった。

  • 8 世紀後半、アングロ・サクソン七王国のひとつであるマーシア王国の王オファが、強勢を誇った。

    オファ王は、ウェールズに割拠するケルト系ブリトン人に対抗するために、ウェールズとの国境に「オファの防壁」を建設した。また、フランスのシャルルマーニュ(カール大帝)とも対立していた。

  • 8 世紀末から 9世紀にかけて、アングロ・サクソン七王国の一角であるウェセックス王国が台頭し、デヴォンとコーンウォールに残っていたケルト系ブリトン人の勢力を圧迫した。

  • 802年、フランクに亡命していたウェセックス王家のエグバートが、シャルルマーニュの支援を得て故国に戻り、ウェセックスの王位についた。

  • 825 年、ガルヴォードの戦いでドゥムノニア王国の軍を破ったウェセックス王エグバートが、コーンウォールに侵入した。

  • 835年、ヴァイキングの一派がケントの島嶼部で略奪を行った。

    それから約 30 年間、イングランド南部からコーンウォール一帯にかけて、ヴァイキングの襲撃は毎年のように行われた。

  • 838年、ウェセックス王エグバートは、ヴァイキングとコーンウォールのケルト系ブリトン人からなる同盟軍を撃ち破った。

  • 9 世紀前半、デヴォン・コーンウォールを平定したウェセックス王国の王エグバートがマーシア王国を破り、アングロ・サクソン七王国の覇権を握った。

  • 871 年、アルフレッド(後の大王)がウェセックス王に即位。ヴァイキングの攻勢に対し、当時のウェセックス王国は危機に瀕していた。

    他方、コーンウォールのケルト系ブリトン人たちは、ウェセックス王国の危機に乗じて自立の機会を狙っていた。

    しかし、アルフレッド大王は情勢を建て直し、ヴァイキングの指導者グスルムはキリスト教に改宗した上で、アルフレッド大王と和約を結んだ。

    その結果、コーンウォールのケルト系ブリトン人たちの自立の機会は訪れることも無く去って行った。

    辺境の地 コーンウォールとデヴォン

    荒涼としたダートムーアの風景(デヴォン、イギリス)

    右上の画像は、デヴォンの内陸部にある「ダートムーア」の様子。ケルト系ブリトン人が追い詰められたドゥムノニア(コーンウォールとデヴォン)は、荒涼とした土地だったんだ。

    もう少し詳しく知りたい方は、この旅行記「コーンウォールとデヴォン」の中にある「ダートムーア」のページを読んで下さいね。咲き誇る赤紫色のヒースの花の画像もあります。

【参考】ホテル検索





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