東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
というテーマなのですが、 ・・・ 今回は、
食べ歩き香港 - 入門編
2001 年 8 月
|
香港 略年表
- 1276年、南宋の首都臨安(抗州)を元が攻略した。宋の遺臣たちは幼い皇族(最後の宋の皇帝である恭帝の異母兄にあたる端宗)を擁立し、香港付近で抵抗を続けた。
- 19世紀初頭、香港島とランタオ島を拠点として、張保という海賊が大勢力を築いていた。張保は後に清朝の提督に迎えられた。
- 1839年7月、尖沙咀に住む漁民を酔っ払ったイギリス人が殺害。中国当局はイギリス側に犯人の引渡を要求したが、イギリスは拒否。既にアヘンの焼却に反発していたイギリスは態度を硬化させた。
- 1839年11月、対立を深める中国とイギリスとの間で小規模な海戦が起こった。
- 1840年2月、イギリス本国において、中国に兵を派遣することが決定された。
- 1841年2月、イギリスが香港を領有すると宣言した。
- 1841年5月、イギリスの調査結果によれば、香港島の人口は約2000人、そのうち香港村の人口は約200人。
- 1842年8月29日、イギリス艦コーンウォリス号において、南京条約が締結された。ここにアヘン戦争に敗れた清朝中国が香港島をイギリスに割譲することとなった。
立法大会楼
下の画像は、イギリスによる香港支配の象徴とも言える「立法大会楼」。
詳しくは、ココをクリック。
|
- 1842年10月4日、イギリス当局の令により、夜の11時以降に中国人の外出が禁止された。この命令が廃止されたのは、1897年のことだった。
- 1860年10月24日、アロー号事件(第二次アヘン戦争 1856年-1860年)に敗れた中国が、イギリスと結んだ北京条約において九龍を割譲した。
- 1864年、香港上海銀行設立。
- 1887年、孫文が香港の西医書院に入学した。この学校は1913年に香港大学の医学部となった。
- 1894年、日清戦争勃発。翌年の下関条約で終結。
- 1898年6月9日、中国と展拓香港界址専條を結んだイギリスは、新界を99年間に渡って租借(返還期限は1997年)することとなった。
- 1900年、華僑の経営する百貨店に於いて、初めて女性店員が店頭に立ったところ、それを見物にきた人々で大混乱が起こった。
- 1901年、香港の人口は36万人となっていた。
- 1911年、辛亥革命により清朝が倒れ、中華民国が成立した。(但し、中華民国の正式な成立は1912年。)
- 1922年、中華海員工業連合総会(労働組合)を中心にストライキが起こった。
- 1937年、香港の人口が100万人を越えた。
- 1941年12月8日、日本軍は中国と香港との間の境界線を越えて侵入を開始した。イギリスの香港総督ヤングが降伏したのは12月25日(「ブラック・クリスマス」と呼ばれる)だった。
ペニンシュラ・ホテル
下の画像は、香港を占領した日本軍が司令部を置いたペニンシュラ・ホテル。
詳しくは、ココをクリック。
|
戦前には175万人を越えていた香港の人口が、日本軍の占領下において60万人まで減少した。
- 1943年12月、カイロ会談において戦後の香港の取り扱いが協議された。ルーズベルトと蒋介石は香港を中国の管轄下に置き国際自由港とすることを提案したが、チャーチルはそれを拒否した。
- 1945年8月15日、日本が降伏。イギリスは直ちに太平洋艦隊を香港に入港させ、9月1日にはハーコート英海軍少将が香港軍政府の成立を宣言した。
- 1949年10月1日、中華人民共和国が成立。イギリスは人民解放軍が香港に侵攻して来ることを怖れ、香港駐留イギリス軍は3万人に増員された。しかし、人民解放軍が香港に侵攻して来ることは無かった。
- 1956年、共産党支配化の中国から逃れて来た難民の住む九龍のアパートに、かつての中華民国の国旗である青天白日旗が掲げられた。既に中華人民共和国を承認していた香港当局は、青天白日旗の撤去を命じた。
それに反発した難民達はデモを行い、警官達と衝突。暴徒化したデモ隊は白人を襲い、また白人の車を焼き払った。スイスの副領事の車が襲われ、副領事夫人は病院で死亡している。
- 1961年、香港の人口が300万人を突破した。
- 1967年、中華人民共和国の文化大革命の影響を受け、香港においても紅衛兵まがいの過激派が活動。反英暴動が起こった。
- 1980年、香港の人口が500万人を越えた。
- 1984年、イギリスのサッチャー首相と中国の趙紫陽首相とによって発表された共同声明において、香港が1997年に中国に返還されることが発表された。
- 1997年7月1日、香港が中国に返還された。
- 現在の香港は中華人民共和国の香港特別行政区となっており、その人口は680万人に達している。
|