東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記「イタリア北部の旅」

12. バルジェッロ博物館(フィレンツェ)

バルジェッロ博物館へ

旅の5日目。まずはウフィツィ美術館へ。入館者の行列は150メートルもある。フィレンツェ随一の観光スポットだから、やむなしだよね。1時間あまりの待ち時間で入ることが出来たのは幸いだったと言えるのかも。(別の旅行記「エミリア・ロマーニャとトスカナ(イタリア)」にあるウフィツィ美術館のページを参照。内容が重なるので、ここでは割愛。)

お昼を食べた後、向かったのはバルジェッロ博物館。ここは午後2時に閉まっちゃうから、早めに入るのが肝要かな。(休館日は週によって日曜日だったり月曜日だったり。事前に確認しておくのが賢明だね。)

フィレンツェのバルジェッロ博物館の中庭を囲む回廊(イタリア)

上の画像はバルジェッロ博物館の中庭を囲む回廊。かつてはこの中庭で処刑が行われていたこともあったそうな。このバルジェッロ博物館の建物は、フィレンツェの警察署あるいは刑務所として使われていた時期のことだけどね。

13世紀から、この建物はフィレンツェの市長のオフィスとして使われていた。その後、ここは警察署長のオフィスにして刑務所を兼ねることとなったそうな。更には19世紀半ばまではフィレンツェの警察署だった。

そんな建物がバルジェッロ博物館とされたのは西暦1865年のことだった。成立して間も無いイタリア王国の首都がフィレンツェに置かれた年のことだね。そして今、このバルジェッロ博物館では、ルネサンス期を中心とする多くの彫像を見ることが出来るわけだ。

ミケランジェロのバッカス

フィレンツェのバルジェッロ博物館で見たミケランジェロのバッカス(イタリア) バルジェッロ博物館の閉館は午後2時と早いから、時間切れとなる前に目玉となる彫像を見に行った。それが右の画像にあるミケランジェロのバッカスなんだ。西暦1497年の作品なんだそうな。

フランス王シャルル8世のイタリア侵入によるフィレンツェの混乱を避ける為に、ミケランジェロは西暦1496年にローマに移っている。というわけで、このバッカスはローマで制作された作品なんだそうな。

ところが、バッカス像を注文した枢機卿は、この像の受け取りを拒否してしまった。ワインを飲み過ぎてふらついているような不謹慎なバッカスは、枢機卿のお気に召さなかったみたい。

でも、このバッカスとその後に制作したピエタ(ローマのサン・ピエトロ大聖堂にある)によって、芸術家ミケランジェロの名声が確立されたんだそうな。

ちなみに、バッカスはローマ神話におけるワインの神様(ギリシャ神話におけるディオニソス)だよね。ついでながら、右の画像においてバッカスのブドウを盗み食いしているのは、半人半獣のケンタウロスなんだそうな。

ドナテッロによる洗礼者ヨハネとダヴィデ

続いて、バルジェッロ博物館では見逃せないドナテッロの作品を二つ。まずは下の二つの画像の右側に見えているのは、ドナテッロのダヴィデ像。西暦1440年頃の作品だそうな。(アカデミア美術館で見たミケランジェロのダヴィデ像とはずいぶんと違ったダヴィデだね。)

フィレンツェのバルジェッロ博物館で見たドナテッロによる洗礼者ヨハネとダヴィデ(イタリア)

そして上の画像の左手に見えるドナテッロの洗礼者ヨハネは西暦1415年頃の作品とされている。この洗礼者ヨハネとは、西暦26年にヨルダン川でイエス・キリストに洗礼を施した聖ヨハネだよね。ちなみに、この聖ヨハネはフィレンツェの守護聖人とされている。そんなこともあって、フィレンツェのドゥオモ(大聖堂)の前にある洗礼堂にも、聖ヨハネ(つまり、サン・ジョヴァンニ)の名が付けられている。

ミケランジェロと並ぶバルジェッロ博物館の主役であるドナテッロは、フィレンツェの国父と称されたコジモ・デ・メディチと同じ時代を生き、ルネサンスをリードした芸術家なんだそうな。上の画像に見たドナテッロのダヴィデ像は、国父コジモの依頼によって制作されたものなんだそうな。

メディチ家の初代トスカナ大公コシモ1世の胸像

そして下の画像は、チェッリーニによるコシモ1世の胸像だね。コシモ1世とは、メディチ家の傍流から出てフィレンツェ大公となり、後にはトスカナ大公となった人物。但し、この胸像は西暦1548年に制作されたんだけど、コシモ1世がトスカナ大公となったのは西暦1570年のこと。

フィレンツェのバルジェッロ博物館で見たチェッリーニによるコシモ・デ・メディチ胸像(イタリア)

この胸像に姿を残すメディチ家のコシモ1世も興味深い人物なんだけど、他方で胸像を制作した芸術家チェッリーニも波乱万丈の生涯を過ごした面白い人物だったらしい。

チェッリーニは西暦1500年にフィレンツェに生まれたんだけど、やがてローマで修行し、西暦1527年にハプスブルク家の皇帝カール5世の神聖ローマ帝国軍がローマを劫略した時にはサンタンジェロ城の防衛に参加し、かと思えばローマ教皇の不興をかって西暦1538年にはサンタンジェロ城に幽閉されている。

西暦1540年にはフランス王フランソワ1世によってパリに招かれ、西暦1545年にはメディチ家のコシモ1世によってフィレンツェに呼び戻されている。そこで上の画像にあるコシモ1世の胸像を残したわけだね。そして西暦1571年に亡くなったんだそうな。


次のページは 「13. フィレンツェのサンタ・クローチェ教会」




ヨーロッパ三昧 トップ・ページ

ヨーロッパの歴史風景

このサイト「ヨーロッパ三昧」には、下の姉妹サイトもあります。ヨーロッパに興味のある方は寄り道してくださいね。

ヨーロッパの歴史風景 バナー このサイト「ヨーロッパ三昧」の姉妹サイト「ヨーロッパの歴史風景」。ヨーロッパ各国の歴史に重点を置いてある。



Copyright (c) 2000-2014 Tadaaki Kikuyama
All rights reserved
このサイトの画像 及び 文章などの複写・転用はご遠慮ください。

このサイトの運営は、あちこち三昧株式会社が行います。