東西南北 春夏秋冬
ヨーロッパの旅
エミリア・ロマーニャ と トスカナ (イタリア)
1999 年 6 月
- AD 455年(あるいは453年)、テオドリック(あるいはテオドリクス)が誕生。この赤ん坊は、後に東ゴート族の大王とも称された。
その父は、当時の東ゴート族を支配していた三兄弟の末弟ティウディメルだった。
やがてテオドリックは人質として東ローマ帝国の都コンスタンティノポリスに送られ、その地でローマ帝国の文化を吸収した。
- AD 469年、東ゴート族はドナウ川北岸に住むゲルマン諸族と戦い、勝利を得た。
しかし、その戦いで東ゴート族の支配者の長兄であるワラメルが死去。コンスタンティノポリスから送り返されたテオドリックは、叔父ワラメルの領土を継承した。
- AD 474年、東ゴート族の支配者となっていたティウディメル王が死去。テオドリックが東ゴート族の王となった。
しかし、東ローマ帝国は、その前年に別の人物を東ゴート族の王と認めていた。従い、この時点で東ゴート族の勢力は二分されていた。
- AD 475年、ラヴェンナに於いて幼少のロムルスが西ローマ帝国の皇帝に即位した。
- AD 476年、東ローマ帝国内での権力闘争に勝ち残って帝位を得たゼノン帝が、テオドリックに接近し、東ローマ帝国の軍事長官の称号を与えている。
この年、西ローマ帝国では、ゲルマン系の傭兵隊長オドアケルが権力を奪取。西ローマ帝国が滅亡した。
- AD 471 - 481年、テオドリック王支配化の東ゴート族と東ローマ帝国との戦いが続いた。当時のテオドリックは、アドリア海沿岸を拠点としていた。
- AD 481年、テオドリックと対抗していたもう一人の東ゴートの王が死去。テオドリックは東ゴート族唯一の王となった。
- AD 483年、東ローマ帝国のゼノン帝と東ゴートのテオドリックが和解。
- AD 484年、テオドリックは東ローマ帝国の執政官の地位を与えられた。
- AD 486年、テオドリックと東ローマ皇帝ゼノンとの関係が再び悪化。テオドリックの率いる東ゴート族軍は、トラキアに侵入して略奪を行った。
- AD 487年、テオドリック王指揮下の東ゴート族軍がコンスタンティノープルを攻撃。しかし、東ローマ皇帝ゼノンとの講和が成立し、テオドリックは都を攻略することなく、軍を退いた。
- AD 488年、東ローマ皇帝ゼノンの意向を受けたテオドリックが、東ゴート族軍を率いてイタリアに向かった。
- AD 489年、アドリア海の最も奥にあるイゾンツォにおいて、オドアケル軍とテオドリック軍とが衝突。勝利を得たテオドリック軍は、ついにイタリアに侵入した。
その一ヵ月後、両軍はヴェローナで再び戦ったが、またもやテオドリックが勝利を得た。敗れたオドアケルは、ラヴェンナにたてこもった。
しかし、オドアケルの配下の将軍トゥファの策略により、形成は逆転。ティキウム(現在のパヴィア)において、テオドリックはオドアケル軍によって包囲された。
- AD 490年、西ゴート族の王アラリック2世の支援を得て、テオドリックが再び攻勢に出た。敗れたオドアケルはラヴェンナにたてこもった。
- AD 491年、イタリアの混乱を見て取った北アフリカのヴァンダル族が、軍をシチリアに上陸させた。しかし、東ゴート族軍がヴァンダル族軍を駆逐した。
- AD 493年、東ゴート族の王テオドリックが、ついにラヴェンナに入城を果たした。オドアケルは、その10日後に殺害された。
以後、テオドリックは「イタリアの王」を称した。
- AD 497年、東ローマ帝国の皇帝アナスタシウスは、テオドリックをイタリアの支配者と認めた。
- AD 501年、テオドリックは「フラウィウス・テオデリクス・レクス」と称した。
- AD 508年、東ゴート族軍が南ガリアに於いてフランク族軍を破り、プロヴァンスを領有した。
- AD 518年、東ローマ帝国の皇帝となったユスティヌス1世はアリウス派を迫害し始めた。
ローマ教会が東ローマ帝国の動きに同調したために、イタリアに於いても宗教問題 及び カトリックを信じるローマ人とアリウス派を侵攻するゴート人との関係が悪化し始めた。
右の画像は、テオドリックによってアリウス派の為に築かれたサン・ヴィターレ教会(ラヴェンナ)。
サン・ヴィターレ教会について詳しくはココをクリック。
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- AD 523年、テオドリックの娘婿となっていた西ゴート族出身のエウタリックが急死した。息子のいないテオドリックは、有力な後継者を失ったことになる。
同年、同盟国となっていたヴァンダルの王トラサムンドが死去。後継者ヒルデリックは東ゴートとの同盟を断ち、東ローマ帝国と結んだ。
- AD 526年、ラヴェンナに於いて軟禁されていた法王ヨハネス1世が死去。
同年8月30日、東ゴート族の大王テオドリックが死去。王位を継いだのは、まだ幼少の孫アタラリックだった。但し、その母にしてテオドリックの娘アマラスウィンタが摂政を務めた
右の画像は、ラヴェンナ近郊に残るテオドリック王の霊廟。
テオドリック王の霊廟について詳しくはココをクリック。
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