東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のポルトガル」

リスボン、シントラ、オビドス、ナザレなど

14. ナザレ -3. 岩山の上のシティオ

ナザレの岩山の上の集落 シティオ

ポルトガル有数の海辺のリゾート地ナザレの砂浜のレストランでイワシとワインでお昼を済ませ、ケーブルカーで登った岩山の上の集落がシティオなんだ。下の画像がそのシティオの集落の中心部なんだけど、中央やや左に見えている二つの塔を持つ建物が、由緒あるノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会だね。

ナザレの岩山の上のシティオの街並み(ポルトガル)

ナザレの砂浜には多くのレストランが並び、夏には多くの観光客が来るリゾート地になっている。でも、そもそもナザレの街はこの岩山の上のシティオから発展したらしい。というのも、海辺近くは海賊たちに襲われる危険な場所だった。海賊たちの襲撃を避けるために、この海抜 110メートルの高さの岩山の上に街を築いたということなんだそうな。

海賊といえば、フランス南部コート・ダジュールの村エズなどを襲撃したイスラム教徒の海賊バルバロッサなどが有名だよね。でも、このポルトガルの海辺の街や村を襲ったのは、必ずしもイスラム教徒の海賊たちだけじゃなかったそうな。

イギリスやフランスの海賊たちもポルトガルの海辺を襲ってきたらしい。確かにイギリスではイングランド南部の街ライが海賊たちのたまり場だったし、フランス北西部にある世界遺産モン・サン・ミシェル近くの港町サン・マロも海賊たちの拠点だったからね。

シティオの岩と騎士を救った聖母マリア

12世紀のことなんだけど、霧深い朝に鹿を追っていた騎士が断崖から落ちたそうな。その騎士の命を救ったのが聖母マリアだった。そんな聖母マリアの奇跡を記念して建てられたのが、エルミダ・ダ・メモリア礼拝堂だった。というのが、ナザレの街に伝わる伝説なんだそうな。

ナザレの岩山の岩と大西洋(ポルトガル)

上の画像はそんなシティオの集落がある岩山の断崖の様子なんだ。ここから落ちて助かったら、聖母マリアの奇跡に感謝したくなるのも納得だろうね。ちなみに、12世紀の小さな礼拝堂は、やがてノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会となったんだそうな。

ナザレという街の名前と伝説

この街に伝わる伝説によれば、それは4世紀のことだった。修道士が聖地ナザレから黒い聖母マリア像をスペイン(当時は西ゴート王国)に持ち来んだらしい。

そして西暦711年、北アフリカからイスラム教徒が侵攻して来た。戦いに敗れた西ゴート王国の最後の王ロデリックは、修道僧と共にこの地に逃れて来た。彼らと共にこの地にやって来たのは、数百年前に聖地ナザレからスペインに持ち込まれていた黒い聖母マリア像だった。故にやがてこの地はナザレと呼ばれるようになったらしい。

ナザレの岩山の上のシティオの展望台と大西洋(ポルトガル)

王と修道僧はここで隠者として暮らし始めた。修道僧は大西洋を見下ろす岩山の上の洞窟に住んだ。やがて修道僧が亡くなった時、王は遺骸を洞窟に葬り、そこに黒い聖母マリア像を残して立ち去ったらしい。12世紀に聖母マリアの奇跡が騎士を救った後に建てられた教会は、その修道僧が葬られた洞窟の上に築かれたとか ・・・ 。

というのがナザレに伝えられる伝説なんだけど、西ゴート王国最後の王ロデリックは、西暦711年のイスラム教徒との戦いの際に戦死したとされているけどね。

岩山のシティオから眺めた大西洋とナザレの砂浜

そんな伝説のあるシティオの集落の端っこ、断崖の上からの眺めが下の画像なんだ。大西洋と押し寄せる波、そしてナザレの砂浜。

ナザレの岩山の上のシティオの展望台と海辺のプライアの集落(ポルトガル)

今は5月になったばかりで砂浜に人影も少ないけど、夏になれば多くの観光客が集まるんだろうね。というナザレの岩山の上のシティオ地区からバスに乗り込み、次の目的地に向かったのは2時40分だった。


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