東西南北 春夏秋冬 ヨーロッパの旅

旅行記 「春のポルトガル」

リスボン、シントラ、オビドス、ナザレなど

ポルトガル略年表 h07. スペインによる支配

  • 1578年、若干 24歳のポルトガル王セバスティアン1世が、無謀な北アフリカでの作戦によって戦死。王位を継承したのは、大叔父で枢機卿となっていたドン・エンリケだった。

  • 1580年、高齢のポルトガル王エンリケ 1世が、後継者なくして亡くなった。直ちにポルトガル王位の継承問題が発生した。

    同年、アルバ公指揮下のスペイン軍がポルトガルに侵入し、王位を主張するドン・アントニオの軍を撃ち破り、ポルトガルを制圧した。ハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世は母方の祖父がポルトガル王マヌエル1世であること(父のカルロス1世の王妃がポルトガル王女だったこと)に基づいて、ポルトガルの王位を主張していた。

    香辛料や金の取引の衰退から経済危機に陥っていたポルトガルの人々は、一部の民衆を除いて、スペインとの同君連合を支持していたらしい。

  • 1581年4月、ハプスブルク家のスペイン王フェリペ2世が国民議会コルテスにおいて王位を与えられ、ポルトガル王フェリペ1世として即位した。

  • 1584年、九州のキリシタン大名によって派遣された天正遣欧少年使節リスボンに到着した。彼らはシントラの王宮でフェリペ2世の総督に拝謁したらしい。天正遣欧少年使節は翌年にはイタリアのローマに至り、サン・ピエトロ大聖堂において教皇シクストゥス5世の即位の式典にも参列している。

  • 1588年、スペインがイギリス侵攻の為に派遣した無敵艦隊に、ポルトガル船 31隻が参加。しかし、イギリス海軍に敗北。

  • 1602年、オランダが東インド会社を設立。やがて、アジアからポルトガル勢力を駆逐していくことになる。

  • 1611年、スペインによる「借款」という名のもとに、ポルトガルにおける実質的な増税が行われた。

  • 1623年、日本の江戸幕府がポルトガル人を追放した。以後、日本との貿易はオランダによって独占されていく。

  • 1630年、スペインからの独立戦争を続けていたオランダが、ブラジル北東部の砂糖生産地域を占領。

  • 1634年、スペインによる増税に対するポルトガルの民衆暴動が発生。スペイン軍が暴動を鎮圧したが、民衆の反スペイン感情が高まった。

  • 1638年、オランダによって占領されていたブラジルの砂糖生産地域を奪還するために派遣されたスペイン・ポルトガル連合艦隊が敗北を喫した。

  • 1639年、フランス軍がカタルーニャ地方(スペイン北東部のバルセロナを中心とする地方)に侵入。その翌年には、防衛の為に進駐してきたスペイン軍がカタルーニャで略奪を働いたために、カタルーニャで暴動が発生。

  • 1640年12月1日、スペインから派遣されていたポルトガル副王マルガリータ王女が、ポルトガルの貴族たちによって逮捕され、宮廷革命が成功した。

    宮廷革命に成功した人々からポルトガルの王位を与えられたブラガンサ公ドン・ジョアンが、ポルトガル王ジョアン4世として即位し、ポルトガルの独立を宣言した。以後、ジョアン 4世を始祖とするブラガンサ朝がポルトガルを統治していく。

    独立成功の背景には、スペイン政府がカタルーニャの暴動の鎮圧にてこずっていたことがある。加えて、フランスの宰相リシュリューもポルトガル独立を支援していた。

  • 1642年、ポルトガルとイギリスとの間で同盟通商条約が結ばれた。

  • 1659年、フランスとピレネー条約を結んで和平を確立したスペインが、ポルトガルへの侵入を開始した。ちなみに、そのピレネー条約によりフランス王ルイ14世太陽王はスペイン王女と結婚し、やがてスペイン継承戦争に至る。

  • 1661年、ポルトガルとオランダとの間で和平条約が結ばれた。

  • 1668年、ポルトガルとスペインとの間で和平条約が成立し、スペインはポルトガルの独立を承認した。

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